本日は医療者と患者の異文化コミュニケーションについて考えていきたいと思います。
ちゃんと説明したはずなのに、患者さんが納得してくれない。
医学的には正しい判断なのに、なぜか関係がぎくしゃくする。
臨床で働いていると、こうした「すれ違い」に何度も出会います。
私自身、つい最近、腰を手術された方の硬性コルセットの必要性を説明したのですが、わかってもらえず、怒鳴られてしまいました。
私たちはつい、
「説明が足りなかったのか」
「自分の伝え方が悪かったのか」
「理解してくれない方だ」
と考えてしまいます。
けれど、このすれ違いは能力の問題ではなく、文化の違いとして捉えると、腑に落ちることがあります。
「あたりまえ」が噛み合わない瞬間
医療者にとっての「あたりまえ」
症状には、何らかの「原因」があるという前提
医療者は教育の過程で、
症状には必ず説明可能な原因があるという前提を身につけます。
・痛みの原因
・数値や画像で裏付けられるはずだ
この前提は、医療を科学として成立させるために不可欠です。
しかしその一方で、
・検査では異常が見つからない痛み
・画像と訴えが一致しない不調
・数値では説明できない「つらさ」
に出会ったとき、強い違和感を感じます。
非科学的なものを「良しとしない」文化
医療者は原則として
・エビデンス
・再現性
・客観性
を基準に医療にあたります。
そのため、
・理解できない解釈
・直感や予感
・生活史や信念に根ざした語り
は、治療判断の中心から外れやすい傾向にあります。
「最善の医療を提供する」という信念
多くの医療者は、疑いもなくこう考えています。
「患者さんにとって最善の医療を提供したい」
一方、最善の医療を考えたときに、
・最新のガイドラインに沿った治療か
・合併症リスクを最小化する選択か
・身体機能を統計的に改善する介入か
医学的には、一定の答えがあります。
一方で患者さんの「あたりまえ」はどうでしょう?
患者にとっての「あたりまえ」
症状は「生活の中で起きている出来事」である
患者さんにとって、症状はまず
・日常生活を妨げるもの
・仕事や家事ができなくなる原因
・家族関係や役割に影響する出来事
として現れます。
それは必ずしも、
・どの部位や臓器が悪いのか
・どんな疾患名がつくのか
といった医学的分類から始まるものではありません。
生活の文脈の中で意味を持つ出来事なのです。
症状には「意味」や「理由」があると感じている
患者さんはしばしば、
・なぜ自分がこの病気になったのか
・これまでの生き方と関係があるのではないか
・何かの罰やサインではないか
と考えます。
これは非科学的だから誤り、というものではありません。
人が出来事を理解するときの、ごく自然な認知のあり方です。
「解釈モデル」と言ったりします。
患者さんは、
「原因」ではなく「意味」を求めているとも言えます。
患者さんが「原因」ではなく「意味」を求めることについては、
『どうして私は病気になったのか?』という問いを軸に、別の記事でまとめています。
「最善」とは、生活が続いていくことである
患者さんにとっての「最善」は、
・病気が治ること
・数値が改善すること
・身体機能が改善すること
だけではありません。
・これまでの生活を、できるだけ保てること
・大切な役割を継続できること
・家族との関係が壊れないこと
が、同じか、それ以上に重要な意味を持つことがあります。
医療者が示す「最善の医療」と、
患者さんが望む「最善の生き方」は、
必ずしも一致しません。
それでも患者さんにとっては、
生活をこれまで通りに送っていけることが最善であることが多いのです。
医療者と患者は「同じ文化」にいない
医療者は「医療という文化」の中で育つ
患者さんは「生活という文化」の中で生きている
どちらが多いかというと、当然「生活という文化」で生きている患者さんということになります。
つまり、私たちが知らず知らずのうちに「医療という文化」に染まっているのです。
このことは、医療者として大切であり、そうでなければ医療そのものが成り立たなくなってしまいます。
一方で、医療の現場は、専門家と非専門家の対話ではなく、
異なる文化同士の出会いという側面がある。
ということを知っておく必要があります。
だから「説明しても伝わらない」
患者さんに説明しても伝わらないときのありがちな誤解は、
・情報量の問題ではない
・理解力の問題でもない
・モチベーションの問題でもない
ということです。
意味づけの枠組みが違うのです。
私が、硬性コルセットについて怒らせてしまったのも、「これをつけて生活するなんて、できるわけない。腰を曲げたりひねったりしないように、気をつけたらいいんじゃないか」と患者さんは思ったのかもしれません。
一方で、私自身医療者として引けない部分であったので、多職種で協力して必要性を説明したうえで納得はしてもらえましたが、医学的な立場からの押しつけは、時に対立を生んでしまいます。
すれ違いを「最小化」するために
医療の現場は忙しく、患者さんそれぞれに十分な時間を取ることができません。
ただ、そんな時であったも、解決策を出しすぎないのが重要だと思います。
・無理に納得させなくていい
・「知ろうとする姿勢」が関係性を変える
・一人で背負いすぎずに、周囲に相談する
患者さんに理解してもらえないのは自分自身のせいだと思ってしまう方も多いかもしれません。
そんなことはありません。
そもそも、文化が違うので仕方のないことなのです。
ここが私が伝えたいことです。
患者さんを「知ろうとする姿勢」を持って、そのうえで医療者としての意見を伝えるべきです。
もし、うまく患者さんにわかってもらえないときは、周囲に相談するようにしてください。
ナラティブという視点
この「文化の違い」を扱うための視点が、
ナラティブや医療人類学
です。
病気ではなく、病い。
数値ではなく、語り。
その人がどんな文化に生きているのかをしろうとすることが大切です。
何度も言いますが、医療の文化を否定しているわけではありません。
医療者と患者さんの問題には、この文化という「すれ違い」が一つの要因となっているという事実が重要だと考えております。
まとめ
医療者と患者さんのすれ違いは、
説明の仕方や能力の問題として語られがちです。
しかし実際には、
・医療者は「医療という文化」の中で考え、判断し
・患者さんは「生活という文化」の中で症状を経験している
という、文化の違いが影響していることが少なくありません。
だからこそ、
説明しても伝わらない場面が生じるのは、ある意味で自然なことです
医療者が大切にしてきた科学的態度や専門性は、
医療を成立させるために不可欠なものです。
一方で、患者さんが自分の生活や人生の文脈で病気を理解しようとすることも、
否定されるべきものではありません。
医療の現場は、
専門家と非専門家の対話であると同時に、
異なる文化同士が出会う場でもあります。
そのことを知っているだけで、
すれ違いに直面したときの受け止め方は、少し変わるかもしれません。
すぐに答えを出さなくてもいい。
無理に納得させようとしなくてもいい。
「知ろうとする姿勢」を持ち続けること自体が、
医療における大切な営みなのだと思います。
『医療者がもやもやを感じたとき』
こちらの記事では臨床のもやもやについて書きました。本内容と関連する記事となっておりますので、ぜひ御覧ください。
本日も読んでいただきありがとうございました。
【参考文献】
尾藤誠司 編(2007)『医師アタマー医師と患者はなぜすれ違うのか?』,医学書院.
T.A.



コメント