本稿は、ナラティブ研究会での検討資料となったエッセイです。記載内容は個人情報保護の観点から、背景・状況・属性等を一部改変しています。
理学療法士になるまでの話
筆者が理学療法士を目指し専門学校へ入学して2年目の冬、母方の祖母が入院した。入院した理由は、腰椎圧迫骨折。当時、院内実習中だった私が担当させていただいた患者様と同じ病名だった。
私がお見舞いへ行ったのは、実習の提出物が落ち着いた2週間後だった。ふくよかな頬をピンク色に染めた祖母の笑顔はなく、コルセットを着けて病衣に包まれ、横へ跳ね絡まった髪の毛を気にも留めない変わり果てた祖母の姿があった。
医療を目指す学生として恥ずかしいが、 “何て声をかけよう…”と思ってしまったのをよく覚えている。実習で担当した患者様はもう病棟を歩行器で歩いているのに、“同じ病気”でもこんなに違うものかととても驚いた。臨床に出て5年目を迎えるが、“同じ病気”でも年齢だけでなく、入院前の生活や環境、性格一つとっても回復度合いやゴールが異なるということを度々経験した。
個人的な話だが、祖母と私の関係性を少しお話させていただきたい。
実家は筆者が5歳の時から父方の祖父母と同居しているが、母方の祖母の方が何でも相談しやすかった記憶がある。実家や学校の帰り道からそれほど遠くなかったので、高校生の頃からよく顔を出していたし、 5人居る孫の中でも特に仲が良かったと思う。
祖母の自宅退院
月日は経ち、私は 2カ所の県外の実習と就職活動に追われていた。リハビリをして自宅退院を目指していると母から電話で話を聞いていたので、ひとまず安心だと思った。
7月に実習を終え祖父母の家を訪れると、年末に親戚みんなで囲ったテーブルがなくなり祖母の介護用ベッドがリビングの半分を占めていた。 テーブルもベッドサイドから入れるタイプの物で、食事もそこで食べることになっているという。担当療法士から、「日常生活は見守りがあれば歩行できるレベルだが、階段昇降は難しいためベッドを1階へ移す必要があります」と話があったと祖父は言い、親戚が集まった時も背もたれを起こしベッドから顔を出すだけになってしまっていた。祖母の場合、身体機能の低下が主な原因であったことはもちろん理解しているが、環境を変えることは生活を良くすることも、悪くすることもあるのかと感じた。家屋の状況や一緒に生活する人との関係・人数、元々の生活様式など様々な要因により、“ベッドを 1 階に移す”という意味合いは異なるのではないかと思う。祖母自身も、「入院していた時の方が歩いていた」と話しており、ケアマネージャーさんへ相談し訪問リハビリが開始となった。週1回のリハビリだったが、「この家でできることを増やそうねっていろいろ考えてくれて、嬉しい」と話し、この時久々に見た祖母の笑顔を今でもよく覚えている。
数ヶ月して肌寒くなった頃、訪問担当の方から、「えみこさん(祖母の名前)、家族でもう一回小豆島に行きたいと言われて歩行練習をとても頑張っていますよ」話があったという。祖母と親戚みんなで、暖かくなってオリーブの花が咲く頃小豆島へ行こうと話をしていたが、それが叶うことはなかった。“突然死”だったといい、前日も祖父と散歩をしていたそうだ。寒い時期でも連れて行ってあげれば良かったと、後悔してもしきれない。
リハビリ拒否が強かったAさん
Aさんを担当することになったのは、私が就職して1年目の冬だった。
大腿切断術後の方だった。医師からは、高齢であり歩行を目的とせず、車椅子レベルが目標と指示を受け介入することになった。しかし、介入当日から A さんは「足がないならリハビリはしたくない。 しても仕方がない。」と話され、離床どころか体に触れることもできず、その日の介入は終了となった。この時私は、足を切った次の日に「はい、リハビリ行きます」となるような人の方が少ないだろうとあまり深く考えなかった。
その後 2~3日ほど同じような状況が続き、「リハビリはしたくない。」に加えて、「もう死んでしまってもいいんです。」とまで口にするようになっていた。病棟さんに聞けば、手術して数日が経過しているがご飯もほとんど口にしないので点滴も抜けず、看護師も悩まされているとのことだった。ここまでリハビリ拒否される患者様を担当するのは初めてだったが、“リハビリをしたくないんです”の言い方に棘はなく、何か壁を作っているように感じた。そうは言っても、 臨床経験も浅い私は、 長く話も続かないAさん相手に何を話せば良いのか分からなかった。
この時に思い出したのは、自宅退院した後に歩けないと塞ぎ込んでいた祖母の姿だった。何がAさんに“リハビリをしたくない”と思わせているのかを知りたいと思った。
Aさんとのリハビリ
リハビリができないAさんの病室へ顔を出して4日目、単純にリハビリが嫌なのか?それとも、足を切断したことがつらい?体がしんどい?少しでも今思うことを伝えてほしいと伝えた。
すると、Aさんは「あなた結構しつこいのね」とリモコンを操作しベッドを少し上げた。
怒らせてしまったのかと一瞬感じたが、 優しい目をしていた。そして、ぽつりぽつり病気するまでのことを話してくれた。Aさんは娘夫婦と同居していること、一緒に住んではいるが自分ができる料理や洗濯などはこなしパート勤めの娘の負担を減らせられたらと思ってきたこと、40代でご主人を亡くされてからは一人で働いて娘2人を育て上げたこと。そして、今回切断して歩けなくなったことで、家での役割を担えず家族に迷惑をかけるくらいならずっと寝たきりで施設へ入ってもいいくらいに思っていると話された。
長い話を通して、 切断した足への不満などは一切口にされなかったことにとても驚いた。話を聞いてみないとわからないものだ。コロナによる影響で面会は厳しく制限されていたため、今後の生活についての家族の思いや、切断したことをどう思われるかに不安が強く、このことを確認する手段もないことに気がついた。Aさんは、何日も答えのない問いを考え続けていたのかもしれないと思うととても不甲斐ない気持ちになった。
以降は、看護師・医師に相談し、家族との面会やADL練習の時間を設けてもらい、Aさんは周囲のスタッフが驚くほど一生懸命リハビリに取り組まれた。
その時、「私は戦後の日本が立ち上がるって時に学生だったの。まだ女性が仕事をバリバリするような世の中では到底なかったけど、銀行の中で一昔前のタイピストの様な仕事をして、とても褒められたわ。自分で決めたことはちゃんとやり遂げる性格だったからね。 」と話されたのが印象的だ。
元々、バリアフリーの自宅だったこともあり、1 か月ほどで車椅子を使用し自宅退院となった。
退院後のAさん
Aさんと約半年後に話をする機会があった。
Aさんは、入院当初の様子では着ていることが想像できないくらい明るい紫色のカーディガンを羽織り、花柄のロングワンピースをはいて「自分でできることは自分でできるし、娘や孫も本当に良くしてくれるから困ることは何にもないよ」とイキイキと話された。 スカートは日頃から履いていて、自分でトイレに行って脱ぎ履きをしやすいように工夫しているらしい。退院前に気にかけていた切断に対する他人の目についても、デイサービス職員や利用者さんから切断前と変わらない対応をしてもらったことがきっかけで外出も怖くなくなったと語った。
最後に
冒頭で私の祖母について述べたが、“病気をする(永久的な障害の場合は特に)”ことと“身近な人の死”は少し似ている所があると思っている。“あたり前”だったことをある日突然失っても、時は刻一刻と過ぎ、社会は何事もなかったように動いている。
当時国家試験を受ける直前でひどく落ち込んでいた私にかけられた言葉は、「しっかり切り替えて頑張らないと、おばあさんも悲しむよ」だった。かけた側は励ますつもりだったと思うが、一人で乗り越えるよう突き放された気がしてとてもショックだった。
数ヶ月後理学療法士として現在の病院に勤め、日々先輩方に教わりながら新しく目標ができ、祖母と同年代の患者様から暖かい言葉をいただき、沢山の人々との繋がりの中で“祖母の死”を少しずつ乗り越えていけた気がする。こうして振り返ると、Aさんも“左足や歩行”という今まであたり前にあったものを失ったショックは計り知れない。
しかし、家族・訪問職員やデイサービスの利用者さんとの繋がりの中で様々な物語があり、半年後のイキイキとしたAさんに出会えたのかもしれない。
我々理学療法士は、病気により何かを失い落ち込む患者様に出会うことが多々ある。その時、その人にとっての“失ったあたり前”はどのような位置付けでその人をどう造ってきたのか理解しようと寄り添うことで、見えてくる物があるのかもしれないと思う。
※本稿は個人情報保護のため、背景・状況等を一部改変し、複数事例を再構成しています。



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