病いと不幸の物語

ナラティブ・語り

心身の不調を説明する特徴として、
なぜ、どのようにその人が病気になったかということが、
「物語/ナラティブ」の形で語られることがほとんどです。

「病気の物語」を語ることは病気に「意味」を与えるという役割を持っています。

特に個人的な苦しみの物語は、単に個人のものであるだけではなく、
周囲の方との関係性、神話や人生史、日頃の生活との関連など、文化的な背景の影響を受けます。
そのため、場合によっては、薬や処方といった身体的な治療よりも、
「なぜ私は病気になったのか」という意味が重要になってくる場合もあります。

一方、西洋医学の物語は「直線的」で、
患者さんの物語を始まり、中間、終わり(現在)という形に編成しようとします。

「いつから痛み始めましたか」
「前回お薬をあげてからどうなりましたか」

といった質問は患者の経験を直線的な物語の形にはめ込むものと言えます。
そして、西洋医療では、医師がまとめた「症例」という標準化された形で医学雑誌に掲載されます。

また、西洋医療の特徴として、言語的物語が多い傾向にあります。治療者が質問をして、患者さんが答える。それが、一般的な診療の形です。

物語は、言語化したものであると捉えられることも多いですが、
ほとんどの物語が非言語的と言えます。
個人の苦しみは、
うまくまとまらないことが多いです。
そして、時系列が前後したりする。
あるいは、言葉そのものにならず、沈黙や表情、身体の動きとして示されることもあります。

それでも人は、自分の不調や苦しみを「単なる病気」としてではなく、
何らかの意味をもった出来事として理解しようとします。
そこに語られるのが、「病いと不幸の物語
です。

なぜ自分がこの病気になったのか。
なぜこのタイミングだったのか。
それは、努力が足りなかったからなのか、無理を重ねてきたからなのか、
あるいは、人生のどこかで抱えてきた何かなのか。

こうしたことは、医学的文脈では説明できません。
しかし、この思考が、苦しみの経験の一部で、
その人なりの整合性を保つための営みでもあります。

文化人類学者のアーサー・クラインマンは、
病いの経験(illness)を、単なる身体の異常ではなく、
「意味を与えられた出来事」として捉えました。
病気は、身体の中だけで起きるのではなく、
その人の人生史や価値観、関係性の中で経験されるもの
という視点です。

この視点に立つと、
「病いと不幸の物語」は、個人では完結しません。
家族との関係、仕事の文脈、地域や宗教、
「こう生きるべき」とされている社会も影響します。

一方で、西洋医学の物語は、
この複雑で揺れ動く経験を、できるだけ整理された形へと編成しようとします。
始まりがあり、経過があり、現在の状態がある。
症状は整理され、因果関係は直線的に説明されます。

それは医療として必要なことであり、
治療を進めるための重要です。
しかしその過程で、
不幸の物語として語られていた苦しみは、
「症例」や「経過」に置き換えられていきます。

言葉にならない違和感や、
整理できない感情、
何度も同じところに戻ってしまう語りは、
医学の物語の中では、傍に置かれてしまいます。

しかし、病いと不幸の語りは、
その人にとっての主観的な経験です。

病いと不幸の物語は、
はっきりとしたものではなく、とても曖昧なものです。

医療者は、
その曖昧な物語に少しでも足を踏み入れてみることも重要です。

【参考文献】

  1. セシル・G・ヘルマン 著(2018)『ヘルマン医療人類学』,辻内琢也 監訳,金剛出版.
  2. アーサー・クラインマン 著(1996)『病いの語り-慢性の病いをめぐる臨床人類学』,江口重幸,五木田紳,上野豪志 訳,誠信書房.

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