意味は、語りの中で探されている— 解釈学的アプローチから考える臨床の聞き方 —

文化・医療人類学

人は語るとき、それほどうまい語り手ではなくともある道筋に沿って話す(話しているつもりである)。

聞き手にとってストーリーが見えやすい場合もあれば見えにくい場合もある。聞き手がそのストーリーを見いだすのは、まずなんらかの「脈絡(文脈)」つまり「意味あるもの」を語りの中に見いだし、それをつなげていく作業を通してである。

語り手の側が自らの語りに与えている意味と聞き手が見いだした意味との間にその「意味あるもの」が差異があっても、聞き手は何とか語りのなかに「意味」を見いだすことに努める。

波平恵美子:「病の語り」についてー医療人類学の立場からー.日本保健医療行動科学会年報.2006;21(6):18−26.

上記の論文の抜粋は、「語りとは何か?」を語り手と受け手の立場から、わかりやすく解説してくれています。ここからは、解釈が間違えているかもしれませんが、私なりに「語り」について考えてみます。

臨床の場面で考えたときに、
確かに私たち医療者は、患者さんの語る内容が、医療という文脈においてどのような意味があるのかを考えながら聞いています。

特に、治療や指導において「意味ある語り」はないかを探っているかのように思います。

一方、
患者さんが一見医療と関係のない話(家族に話すような会話のようなもの)をされたとき、
私たち医療者は、それをどのように捉えるのでしょうか。

おそらく人類学者の方々であれば、
その話についても「語り」として捉え、聞き手として「意味のある」がないかを、
注意深く聞くのではないかと思います。

医療の現場では、
目の前の人の行為や語りをすぐには理解できない、あるいは理解できたと思っても共感できないという状況に出会うと思います。

それでもなお、その人の行為や語りを何とか理解し、できれば共感しようとすること。
その考え方を、
「解釈学的アプローチ」と呼ばれているそうです。

このアプローチが目指す理解とは、
聞き手が持っている

  • 自分自身の価値観
  • 社会や文化についての前提
  • 人間や人間行為に対する「当たり前の見方」

から、完全ではなくとも一歩引いて(自由になって)
対象となる方々がどのような世界を生きているのかを理解しようとする姿勢を指します。

つまり、
「自分の理解の枠組みで相手を当てはめる」のではなく、
「相手が生きている感じている考えている世界の側から理解しようとする」
それが、解釈学的アプローチなのではと、私自身は捉えております。

これを、
医療の現場で実践することは、
とても難しいことだと思います。何よりも私たちは医療者ですから、
医療に関係のないと思われる話を取り入れている意義はどうしても弱くなってしまいます。

そのことを否定的に捉えることはせずに、
もし臨床で患者さんの言動や行動に「もやもや」を抱えた際は、
解釈学的アプローチのような考え方が重要になってくると思いました。

相手側の世界から患者さんを理解するように視点を変えてみることで、
「意味のある語り」として捉えることができるかもしれません。

患者の病の語りから「病の意味」を治療者を治療者は読みとること(「ソフト」と呼ぶ)によって治療効果が上がることにもっと気づくべきである。しかし現在の医療者教育においては「ソフト」は過小評価されており、科学的で症状のコントロールを技術的に追求すること(「ハード」と呼ぶ)が過大に評価されているためにソフトはハードによって「破壊的」にその価値が置き換えられている。

アーサー・クラインマン 著(1996)『病いの語り-慢性の病いをめぐる臨床人類学』,江口重幸,五木田紳,上野豪志 訳,誠信書房.


本記事を読んで、
皆さんが臨床で経験する「語り」が「意味のある語り」に向かい、
臨床の「もやもや」に輪郭が出てくると嬉しいです。

【参考文献】

  1. 波平恵美子:「病の語り」についてー医療人類学の立場からー.日本保健医療行動科学会年報.2006;21(6):18−26.
  2. アーサー・クラインマン 著(1996)『病いの語り-慢性の病いをめぐる臨床人類学』,江口重幸,五木田紳,上野豪志 訳,誠信書房.

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