「痛みがないってことは、ついても問題ないということではないの?」
松葉杖での歩行中、患肢への部分荷重を避けるよう指導していた患者さんが、こう言いました。ごく自然な口調で、でも私にはうまく答えられなかった質問でした。
コルセットを強く嫌がる患者さんもいます。「あれがあっては外も歩けないし、生活できない」——その言葉もまた、否定できないリアルさを持っていました。
「なぜ守ってくれないのだろう」と感じながら、同時に「なぜ守れないかは、わかる気がする」というもやもやを抱えたまま、指導を徹底することがよくあります。
医療者の文脈と、患者さんの文脈
医療者がこうした指示を出すとき、その背景にあるのは「将来のリスク」です。免荷を守らなければ骨折部に過度な負荷がかかる可能性がある、コルセットを外せば腰椎への負担が増える可能性がある——エビデンスレベルには関わらず、今できる最善のリスク管理の指導をせざるを得ない場面はあります。
でも患者さんの文脈は、異なります。
「痛みがない」というのは、生活の中で長年使ってきた身体のシグナルです。痛みがなければ大丈夫、動けるなら動く——それは日常を生きるうえで、ごく自然な判断の根拠だと思います。「コルセットがあっては生活できない」という言葉も、医療的な優先順位ではなく、買い物に行けるか、季節によっては暑くて外に出られなくなる、という生活者としての切実な問題から生じます。
どちらの文脈も、それ自体として理解できます。ずれているのは、前提にしている「何が大事か」という文脈の違いです。
この感覚に名前をつける——「説明モデル」という概念
以前の記事(医療の現場は実は異文化コミュニケーションである)で、医療者と患者さんの「あたりまえ」のすれ違いを異文化コミュニケーションとして捉える視点を紹介しました。今回のエピソードは、その具体的な一場面だと思っています。
このすれ違いを考えるとき、医療人類学者(人間の文化や社会的背景から健康・医療を理解しようとする学問の研究者)アーサー・クラインマンが提唱した「説明モデル(Explanatory Model)」という概念がヒントになります。
説明モデルとは、簡単に言うと「病気や不調について、人それぞれが持っている解釈の枠組み」のことです。なぜこの症状が起きているのか、どうして私なのか、どうすれば良くなるのか、何が危険で何が大丈夫なのか——患者さんにも医療者にも、それぞれ固有の「解釈の枠組み」があり、しかもその枠組みは文化・生活・経験によってかなり異なります。
「痛みがないならついても大丈夫」は、患者さんの説明モデルとして完全に整合的です。長年の生活経験から形成された、「身体の危険信号」があります。一方、医療者の説明モデルは「画像所見」「組織の修復過程」「荷重と骨折治癒の関係」という、患者さんの日常生活の中には存在しない文脈で構成されています。
同じ身体のことを話しているのに、二人は全く異なる文脈から語っている。それがすれ違いの正体なのかもしれません。
「守らない患者さん」ではなく「違う文脈を持つ人」として
説明モデルという視点を持つと、「なぜ指示を守らないのか」という考え方が変化するのかもしれません。
「守らない」のではなく、「患者さんの文脈では、守る必要がないと判断している」のです。その判断は、患者さんの生活の中で培われた合理性に基づいています。医療的には、非合理的なことが多いのですが、、、
だとすれば、必要なのは「淡々と指導を繰り返すこと」よりも、まず患者さんの文脈を聴くことではないでしょうか。しっかりと患者さんの文脈を聴くことで、その後の対話や関係はずいぶん変わってくると思います。
そのうえで、医療者の文脈——「今は痛みがなくても、組織の修復には時間がかかること」「将来のリスクをどう考えているか」——を、患者さんの生活の言葉に翻訳して届けることができれば、「守れない」状況は少し変わるかもしれません。
ただ正直なところ、これはいつもうまくできるわけではありません。毎日忙しい業務の中で時間の制約もあるし、医療従事者の職種や立場によっても捉えられ方は、異なりますし、どこまで踏み込んでよいかわからないこともある。「わかってもらえた」と思っていたのに次回また守られていない、ということもあります。
それでも、「なぜ守らないのか」と悩むより、異なる文脈を理解してズレを最小限にするようにすることで、少し違う関わりができるような気がしています。
おわりに
患者さんが指示を守れないとき、それは「理解力の問題」でも「意欲の問題」でもないことがあるのではと感じています。
医療者の文脈と、患者さんの生活の文脈。両者は、時折異なる場所から出発しています。クラインマンの言う説明モデルは、その違いに気づき、まず認めることから始めています。
「あなたはなぜ守れないのか」ではなく、「医学的な当たり前を理解してもらえているか」——そう自分自身を省みることが、異文化コミュニケーションとしての医療の現場で、一つの出発点になるのではないでしょうか。
→ 医療の現場は実は異文化コミュニケーションである
→ 説明モデル(Explanatory Model)
→ “病い”と”疾患”
【参考文献】
- アーサー・クラインマン 著(1996)『病いの語り-慢性の病いをめぐる臨床人類学』,江口重幸,五木田紳,上野豪志 訳,誠信書房.



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