感情労働と医療のナラティブ

内省・関わり

感情労働(emotional labour)」とは、労働者が、他者(顧客など)から観察可能な感情表出(表情や身体表現など)を自ら意図的に作り出すことを必要とする労働

Hochschild AR: The managed heart: The commercialization of human feeling. Berkeley: University of California Press 1983(石川准・室伏亜希 訳,『管理される心:感情が商品になるとき』世界思想社. 2000)

感情労働という概念は1983年に米国の社会学者であるホックシールドが提唱した概念です。

人と接する職業は、個人の感情を労働の一部をもって差し出さなければならず、それにより、労働者は企業に求められている規範に則って感情を管理する必要があります。
この感情への企業からの要望を「感情規則(feeling rules)」と呼びます。つまり、感情は社会的なものであり、職場内での暗黙のルールであると言えます。

客室乗務員などサービス業の人々は、客からどんな理不尽なことを言われたとしても、我慢して、基本的には笑顔で対応するように企業から求められており、感情労働の多い職業と言われております。また、医師や看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、介護職も感情労働の多い職業です。

ホックシールドは、この感情労働の手段として、大きく2つあると言っています。
「表層演技(surface acting)」「深層演技(deep acting)」です。

「表層演技」:顔や声の表面だけ規則に合わせることである。本当はイライラしていても、企業の規則に合わせて、笑顔で他者に応じる。
「深層演技」:自分の本当に感じていることを書き換えて、すなわち何らかの意味で納得して、笑顔/怖い顔になることである。
自分の本当に感じていることと、表出していることの間に、表層演技はギャップを作るが、深層演技はギャップをなくす。

恩蔵絢子:感情労働の未来ー脳はなぜ他者の”見えない心”を推しはかるのか?.河出書房新社, pp49,2025.

医療における感情労働においても、上記のような手段が用いられていることは間違いありません。

今回は、そういった手段が用いられる社会から要求されている規則
患者対応における「医療者の感情規則」について考えてみます。

医療者の感情規則

安心を提供する規則

患者さんの不安を増やさないために、医療者側の感情を一定に保つ必要があります。

  • 不安を見せない
  • 落ち着いた姿勢(声のトーン、表情)
  • 希望は壊さず、無責任な楽観もせず

公平・中立であるべき規則

特別扱いをせず、誰に対しても丁寧に接することが求められます。

  • 好き嫌いを出さない
  • 距離感に注意する
  • 怒り・苛立ちを表に出さない

専門性を活かす規則

専門性こそが治療関係の土台になります。

  • 説明は根拠のあるものを筋道立てて
  • 感情より医学的な根拠を優先
  • 弱音を言わずに、専門家としての最善を尽くす

患者の感情を受け止める規則

患者さんの感情を受け止めるべきである一方で、医療者の感情は制限される。

  • 患者さんの怒り/悲しみは受け止める
  • 共感を示す
  • 患者さんのことが納得できなくても受け入れる

こういった感情規則が考えられます。

では、これらの感情規則は、患者さんにとっては安心や信頼を支える一方で、医療者にとっては何をもたらすのでしょうか。
感情規則は、医療者の感情を社会的に制限している可能性があります。
語れる感情と語れない感情が生まれ、
「私はどう感じたか」という一人称の経験は、
しばしば「一般的にどうあるべきか」という三人称の説明に置き換えられます。
※以前の投稿記事『「あなたならどうしますか?」と聞かれたとき』を参照

その結果、医療者は患者さんの物語を支えながらも、
自分の感情や苦悩を言葉にしにくくなります。
ここに、医療におけるナラティブが現れていると考えます。

医療の場で先頭にあるのは、
患者さんの語りというよりも、医学の語りです。
評価、検査、診断、治療方針、リスク管理といった語りが中心にあります。

一方で、患者さんの語りは背景に置かれやすい。
けれども、そこへの配慮が必要になります。
患者さんの語りは、病いがその人の生活の中でどんな意味を持つのかを含んでおり、
医学の語りだけでは不十分です。

さらに重要なのは、
医学の語りには医療者の一人称が入りにくいことです。
「私はどう感じたか」「私はどこが納得できないか」という語りは、
専門性や中立性の規則のもとで抑えられ、
「一般に〜」「医学的には〜」という三人称の語りに置き換えられます。
医療者の感情規則は、この置き換えを促進しているように思われます。

医療者は、
医学の語りを、自分の一人称の語りを抑えながら患者さんと向き合っています。
これは、感情労働の現場での感情規則が影響しています。

私たち医療者は、感情労働という側面からも、今後考えていく必要がありそうです。
実際に、医師や看護師領域では関連する議論や研究が蓄積されつつあります。

そして、
ナラティブは、今回紹介した感情労働の手段としての表層演技や深層演技と比べて、
相手の感情に対して複数の意味の可能性を扱います。
そのため、ナラティブの視点は、
感情労働による心理・精神的な影響をさらに軽減につなげる可能性があるのではないかと考えています。

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※本稿は個人の見解であり、特定の職種の実践を批判する意図はありません。

【参考文献】

  1. Hochschild AR: The managed heart: The commercialization of human feeling. Berkeley: University of California Press 1983(石川准・室伏亜希 訳,『管理される心:感情が商品になるとき』世界思想社. 2000)
  2. 恩蔵絢子:感情労働の未来ー脳はなぜ他者の”見えない心”を推しはかるのか?.河出書房新社, 2025.

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