ある日、高齢の医師と話をしました。その先生は、自身も糖尿病を患い、腎臓の数値にも悩んでいたと言います。
あるとき、患者さんにそのことを話したそうです。すると「これを飲んでみてください」と、巷で話題になっている特殊なお茶を勧められたとのこと。
「お茶を飲むこと自体は害にはならないだろう」と思い、試しに続けてみたそうです。すると、腎臓の数値が正常値に戻ったというのです。
先生はこう語っていました。「なんでかはわからないが、よくなったのは確かだから、結果オーライで今も飲んでいる」と。
私自身、ものすごく興味深い話だと思いました。
医師が患者になるということ
先生は、医師として長年、エビデンス(科学的根拠)に基づいた医療を実践してきた方です。薬の効果には作用機序(どのような仕組みで効くか)があり、臨床試験によって有効性が証明されることが求められる——そういった思考様式を、誰よりもよく知っているはずの人です。
でも、当事者として病気を抱えたとき、その先生は「なんでかはわからない」と言いながら、お茶を飲み続けていました。
これは、医師として矛盾しているでしょうか。私はそうは思いません。むしろ、医師であると同時に、患者であり、生活者でもあるという二重性が、正直に表れた言葉だと感じています。
疾患と病い——二つの「治る」の文脈
医療人類学者のアーサー・クラインマンは、「疾患(disease)」と「病い(illness)」を区別しました。
疾患(disease)とは、医療者が扱う生物学的な異常のことです。血液検査の数値、画像所見、診断名——これらはすべて、疾患の文脈に属します。
一方、病い(illness)とは、その人が病気とともに生きる経験そのものです。何が起きているのか、なぜ自分がこうなったのか、どうすれば回復できるのか——そうした意味づけや語りは、illness の文脈に属します。
この区別で先生の話をまとめてみます。
「お茶で腎臓の数値が改善した」という出来事は、disease の文脈では説明ができません。メカニズムが不明で、科学的根拠もないからです。でも illness の文脈では、「患者さんに勧められたものを試したら、よくなった」という、完結した語りになっています。先生が「結果オーライ」と言ったのは、disease の文脈での説明を保留しながら、illness の文脈での経験を正直に語っていたのかもしれません。
→ 受療行動(illness behavior)とは——クラインマンの3つのセクターから考える
生活者の文脈に、「治る」がある
ここで強調しておきたいのですが、私はこのエピソードから「科学的根拠のない治療を積極的に取り入れるべきだ」と言いたいわけではありません。
伝えたいのは、その以前のことです。
患者さんは、医療者が用意した説明とは別に、自分自身の「治る」に向けた文脈を生きています。民間療法、家族からの助言、昔から続けてきた習慣——そうしたものが、illness の文脈の中で意味をもつことがあります。
私たちセラピストは、患者さんの「回復」を共に考えるとき、disease の文脈(機能障害の改善、検査値の変化)だけを見てしまっていないでしょうか。その人が生活者として抱えている illness の文脈——「こうすればよくなる」という信念や語り——に、どれだけ耳を傾けられているか、非常に重要になってくると思います。
おわりに
「なんでかはわからない、でもよくなったのは確かだから」。
その言葉は、医師として長年積み上げてきた知識と、患者として生きるリアルな経験が、正直に共存した言葉だったのだと思います。
エビデンスと生活者の語りは、対立するものではないのかもしれません。どちらも、病気と向き合う人間の経験の一部です。その両方を大切にできる臨床での実践を、私自身も目指したいと感じています。
参考文献
- クラインマン, A.(1996).『病いの語り——慢性の病いをめぐる臨床人類学』. 江口重幸・五木田紳・上野豪志訳. 誠信書房.(原著1988年)


コメント