「また来てしまいました」——再入院という経験

内省・関わり

「また来てしまいました」

病棟の入り口で、その患者さんはそう言いました。少し申し訳なさそうに、退院してから、二週間も経っていませんでした。

その「また」と「しまいました」という言葉に違和感を感じました。来てはいけなかった、でも来てしまった——そんな気持ちが、その短い言葉に込められているような気がしています。


再入院は「失敗」なのか

医療の世界では、再入院率は「防ぐべきアウトカム」として位置づけられています。退院後に患者さんが戻ってくることは、できるだけ避けるべき事態として捉えられています。

患者さんの「また来てしまいました」という言葉には、それと同じ感覚が滲んでいます。「あってはいけないことが起きてしまった」という自責。医療者の目線と、患者さん自身の感覚が、ここで重なってしまっている。

でも、本当にそうなのでしょうか。

再入院を「防ぐべき失敗」として見る視点は、患者さんが「戻らざるを得なかった理由」についての議論を薄めてしまっている気がします。もちろん、医療従事者の皆さん心の中には思うところがあると思いますが。

「はざまの時間」が終わらなかったとき

以前の記事で、退院という経験をライミナリティ(liminality)という概念から考えました。文化人類学者ヴィクター・ターナーが描いた「どちらでもない宙吊りの時間」——もう病人ではないが、以前の自分でもない、そのはざまに患者さんは立つ、という考え方です。

再入院を、この視点から見直してみます。

退院は、ライミナリティの「出口」ではないかもしれません。自宅に戻ったからといって、はざまの時間が終わるわけではない。変わった身体と、変わらない日常のあいだで折り合いをつけるには、もう少し時間が必要だったのかもしれない。その時間が足りなかったとき、患者さんは「また来てしまいました」と、病院の入り口に現れる。

それは「再統合の失敗」ではなく、「移行がまだ続いていた」ということだと言えるかもしれません。

そして、もう一つ感じること。病院という場所が、ある患者さんにとっては「安全な場所」になっているかもしれないということです。生活の不安を医療者や周囲の方と誰分かち合える場所、自分の身体のことを気にかけてもらえる場所。家に帰ることは「回復」を意味するはずなのに、帰った先に孤独が待っていたとしたら——病院に戻ることは、責められるべきことなのか。決して、責められることではないように思います。

「また来てしまいました」に、どう応えるか

再入院した患者さんに最初にかける言葉を、私はいつも少し迷います。

「お帰りなさい」は、戻ってきたことを歓迎しているようで、違う気がします。「大丈夫でしたか」は、大丈夫ではなかったから来たのだから、的外れかもしれない。

「また来てしまいました」という言葉に対して、「しんどかったですね。少しでも安心できましたか?」と言えるかどうか。そのひと言が、患者さんの自責を少し軽くするかもしれないし、しないかもしれない。正解はわかりません。

ただ、「なぜ戻ってきてしまったのか」を聞くより、「家に帰ってから、何がいちばんしんどかったですか」と聞く方が、その人の経験に近づけるかもしれないと感じています。再入院を「防ぐべき失敗」として共有してしまうより、「移行の途中にある時間」として一緒に受け止めることの方が、次の退院につながるのではないかと思います。なかなか、そう受け止めることも難しいのが病院ですが。

おわりに

あの患者さんの、申し訳なさそうな表情を思い出すことがあります。

「また来てしまいました」という言葉の「しまいました」に、どれだけのものが込められていたか。来ることへの申し訳なさを、患者さんが感じなくてよい場所を、どうすればつくれるのか——うまく答えは出ないまま、あの表情だけが残ってしまっています。

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