「何もなしで歩きたいんです。杖や装具をつけて歩いていたら、知り合いたちに心配されてしまいます。」
脳梗塞や骨折、何らかの疾患により、身体的な障害が生じたとき、
元の生活状態に戻ることが現実的に難しくなるときがあります。
「明らかに筋力が低下しており、感覚も鈍麻している。杖なしの歩行の獲得は、医学的に難しいのではないか、、、」
そんな患者さんの目標とセラピストの現実的な目標設定のズレが生じるときは多いと思います。
そんなとき、セラピストは「もやもや」を感じるかもしれません。
「障害を受容できていない」
それだけでは説明できない患者の語りがあるように思います。
セラピストのもやもやの正体
この場面で多くのセラピストが感じる「もやもや」は、単なる医学的な文脈では理解できません。
患者さんのdemandを聞くことと、「現実的」なゴール設定との葛藤。
その両者を抱えるからこそ、セラピストは迷い、悩むのだと思います。
医学を学んできたセラピストのとって、
適切な評価による目標設定は『正解』です。
EBM(根拠に基づく医療)の枠組みでは、これまでの蓄積されてきたデータが示す「予後予測」が存在します。多くの場合、この根拠に基づくゴールは現実となります。
しかし、患者さんの語りには、そうしたカテゴリーには収まらない『人生の現実』が存在します。
なぜズレが生じるのかー二つの改善の定義
患者さんにとっての「歩きたい」と、医学的な「歩行能力」は必ずしも同じものを指しません。
患者さんにとって「歩く」とは、自分の足で移動する感覚、自分らしさを取り戻すこと、自分の役割を全うすること─それは医学データでは測定できません。
そこには、
病気になる前の自分を思い出すこと
新しい自分との向き合い方
人間関係の再構築
も含まれます。
一方、セラピストの「歩行能力」は、
屋内や屋外を歩行できるか
段差昇降は可能か
方向転換時にバランスを崩すことはないか
ごく一般的な側面からの視点に偏ってしまっている可能性があります。
患者さんと医療者は、
『生活者の語り』と『医療者の語り』
別の言語で語っているということができます。
患者さんの語り(ナラティブ)に寄り添う
医療者にとって、
患者さんの「語り」も医学的なデータも、どちらも等しく重要です、
患者さんが「何も持たずに歩きたい」という背景には、
一人ひとりの物語があります。
なぜ歩きたいのか
何を取り戻したいのか
その文脈を丁寧に聞くことで、
医学的なデータだけでは見落とされる
『その人らしさとはなにか』
が見えてきます。
セラピストがすべきことは、
患者さんの語りを『非医学的だから重要視しない』ことではなく、
それを医学的知見と並べて、
『どうしたら可能になるか。あるいは、どこで折り合いをつけるか』を一緒に考えることだと思います。
セラピストの役割──ズレを生きる
患者さんの「歩きたい」という純粋な願いと、医学的現実のズレ。その両者をきちんと受け止めることも、セラピストの仕事ではないでしょうか。
ズレそのものを『障害受容できていない』と見なすのではなく、そこで『患者さんは何がつらいと感じているのか』。その疑問に真摯に向き合うセラピストの姿勢こそが、大切だと思います。
医学的知識とナラティブ的理解のズレ。その両者の緊張関係の中で、セラピストは患者さんのLIFEに寄り添う。
その「もやもや」こそが、セラピストとしての視野を広げてくれる可能性があるのだと思います。
まとめ
患者の希望と現実のズレ
脳梗塞や骨折後のリハビリで、「杖なしで歩きたい」という患者さんの希望と、医学的根拠に基づくセラピストの目標設定がズレることがあります。このズレを単に「障害受容できていない」と片づけることはできません。
なぜズレが生じるのか
患者さんにとっての「歩く」は、自分らしさの回復や人間関係の維持など、数値では測れない人生の意味を含んでいます。一方、セラピストの評価は歩行能力・バランスといった機能面に偏りがちで、両者は「生活者の語り」と「医療者の語り」という異なる言語で話しています。
セラピストに求められる姿勢
患者さんのナラティブ(語り)を非医学的だと軽視せず、医学的知見と並置したうえで「どうすれば可能か、どこで折り合いをつけるか」を患者さんと一緒に考えることが大切です。
「もやもや」の意味
そのズレを前にセラピストが感じる「もやもや」は、医学とナラティブの両方に誠実であろうとする証であり、専門家としての視野を広げる契機になりえると考えています。



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