知識・技術と対話を携えたセラピストになりたい

知識・技術と対話を携えたセラピストになりたい ナラティブ・語り

先日、恩師のご縁でつながっている先生方と、ゆっくり話す時間がありました。

臨床を経験して現在は教育者として働かれている方々でしたが、「どんなセラピストをめざしているか」というテーマが、対話のどこかに流れていました。その場では言葉にしきれなかったことが、帰り道にじわじわと浮かんできました。


エビデンスがあっても、技術が伴うとは限らない

近年、理学療法の領域でも多くのエビデンスが蓄積されています。系統的レビュー(複数の研究をまとめて分析したもの)や大規模な臨床研究の結果も、以前より手軽にアクセスできるようになりました。

でも、エビデンスを「知っている」こと「発信する」ことと、それを患者さんに「届けられる」ことは、同じではない。

「この介入には効果があると言われている」と頭では知っていても、実際の臨床場面でその技術を使いこなせているかは別の問題です。評価の精度、技術、患者さんの状態への応用力——そういった「実践の技術」は、論文を読むだけでは身につかない部分があります。

エビデンスを持つことは、大切な一歩です。でも、それだけで「患者さんに効果をもたらせる」とは言い切れない。臨床での実践の技術が必要になってきます。


対話ができても、技術が伴うとは限らない

同じことは、ナラティブ(患者さんの語り・対話)の側にも言えると思っています。

患者さんとのコミュニケーションが円滑にできる、語りを丁寧に引き出せる——それはセラピストとして大切な力です。ですが、いくら対話ができていると思っても、患者さんの目標や生活に対して、身体的な支援を実際に届けられなければ意味が半減してしまいます。

「あなたのことをちゃんと聞けました」だけでは、リハビリとは言えない。その人がめざす生活に向けて、身体の機能に直接働きかけられる力——つまり「技術」が必要なのだと、改めて思います。


技術は、土台である

ここで言う「技術」は、単なる手技や器用さではないと感じています。

臨床の技術とは、知識を実際の患者さんに合わせて使いこなす力であり、経験の中で少しずつ磨かれていくものではないでしょうか。哲学者のドナルド・ショーンは、熟達した実践者を省察的実践家(reflective practitioner)と呼びました。これは、実践の中で絶えず考え直し、状況に応じて自分の行動を調整し続けられる専門家のことです。要するに、「知識を持っている人」ではなく、「知識を使いながら考え続けられる人」こそが本物の技術を持つ専門家だ、という考え方です。

エビデンスは「何が効果的か」を示してくれます。ナラティブは「この人にとって何が大切か」を教えてくれます。でも、それを実際の臨床場面で統合して使えるかどうかは、まずは基礎的な知識や技術が必要だと思っています。医療屋としての土台があってこそ、エビデンスとナラティブは意味を持つ——先輩との対話の中で、感じました。


「携える」ということの意味

「携える」という言葉を選んだのは、どちらかを「選ぶ」のではなく、両方を「持ち歩く」というイメージがあったからです。

エビデンスとナラティブは、しばしば対立するものとして語られます。「根拠に基づくか、患者さんの語りに基づくか」という二者択一のように。そんなことはありません。エビデンスとナラティブは臨床の両輪であり、どちらも、必要不可欠です。一方で、それを使いこなす知識や技術という土台が、まず必要です。


おわりに

「エビデンスと対話を携えたセラピスト」という言葉は、自分がめざしたい方向を指してはいますが、どうすればそこに近づけるのか、日々の臨床の中でまだ模索しています。

ひとつだけ確かに思うのは、基礎的な知識や技術を磨くことを後回しにしてはいけないということです。新しい知見を得ることも、患者さんと対話することも、その先にあるものだと感じています。

先輩方のようになれるように私自身も頑張っていきたいと思えました。

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【参考文献】

  1. Schön, D.A.(1983). The Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action. Basic Books.

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