研究と臨床は、遠くない——「知る」と「検証する」という共通の問い

研究と臨床は、遠くない——「知る」と「検証する」という共通の問い 内省・関わり

研究をしていると、ときどき考えることはありませんか。

「これは、臨床から離れた作業になっていないか」と。

データを集め、分析し、論文を読み込む時間が続くと、患者さんのいる場所とどんどん遠ざかっているような感覚に陥ることがあります。

私自身、研究と臨床は過程が非常に重要だと考えることがあります。


臨床推論を、もう一度振り返る

毎日の臨床で、私たちは何をしているのでしょうか。

患者さんと会い、話を聞く。身体の状態を評価する。「この方にはこういうことが起きているのではないか」と仮説を立てる。介入し、その結果を見る。うまくいかなければ、もう一度考え直す。

この流れを言葉にすると、「知ること」と「その解釈が正しいかを確かめること」の繰り返しだと気づきます。

臨床推論(clinical reasoning)——臨床家が患者さんの状態を理解し、判断を下す思考の過程——は、「どうなっているか」を知ろうとし、「その見立ては正しいか」を絶えず循環させる作業です。この繰り返しのなかに、日々のリハビリがあると感じています。


研究の思考過程と重ねてみると

研究も、同じ問いから始まります。

「この現象は、なぜ起きているのか」。「この介入は、本当に効果があるのか」。「患者さんが語るこの感覚には、どんな意味があるのか」。

問いを立て、情報を集め、分析し、「この解釈で正しいか」を問い直す。うまく説明できなければ、問いそのものを見直す。

この構造は、臨床推論と変わらないと思っています。どちらも、「知る」という行為と、「その知識の確からしさを検証する」という行為が交互に重なっています。

方法や言語は違います。臨床では評価器具を使用し、問診をする。研究では統計を使い、文献を読む。でも、問いの立て方と、その問いに誠実に向き合う姿勢は、同じではないでしょうか。

直接的に臨床の疑問が研究につながることも多々あります。


距離感は、どこから来るのか

では、なぜ「研究は臨床と遠い」と感じてしまうのか。

ひとつには、研究で扱う「患者さん」が、集団としての患者さんだからだと思います。目の前の一人ではなく、統計上の多数。「平均的に効果がある」という結論は、「この患者さんに効果がある」とは必ずしも一致しない。そのずれから距離を感じるのかもしれません。

でも、そのずれを意識できるのも、臨床推論の思考があるからだと感じています。「集団のデータ」と「目の前の一人」の間で考え続けることが、臨床家が研究に関わる意味のひとつではないでしょうか。


おわりに

研究をすることは、臨床の思考と似ている作業だと、最近思っています。

「知る」と「確かめる」を繰り返す——それは、臨床の現場でも研究の机の上でも変わらない。ただ、扱う素材と使う言葉が違うだけで、同じ循環を繰り返している。

そう考えると、研究と臨床のあいだに感じていた距離が縮まってくるのではないでしょうか。この感覚を持ち続けること自体が、両方のを大切にすることができる土台になると感じています。

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