「本当に家に帰って大丈夫?」──退院場面で医療者が抱える不安について

「本当に家に帰って大丈夫?」──退院場面で医療者が抱える不安について 内省・関わり

急性期病院で働いていると、退院カンファレンスの場でこんな質問を向けられることがあります。

「リハビリの方から見て、この患者さん、家に帰って大丈夫そうですか?」

そのとき、私の中には小さな引っかかりが生まれます。「大丈夫だと思います」と答えながらも、どこかに確信が持てない感覚が残る。病棟での動作は安定してきた。でも、あの人の家の間取りはきいたけど。実際は、どんな段差があるのだろうか。夜中にトイレに行くとき、大丈夫なのだろうか——。

退院を前に不安を感じているのは、患者さんだけではないのかもしれません。

病院という「限られた場所」で見えるもの、見えないもの

急性期病院のリハビリ室は、ある意味でとても人工的な環境です。手すりの高さは揃っていて、床は平らで、すぐそばにスタッフがいる。その環境の中で「できる」ことが確認できたとしても、それがそのまま生活の中での「できる」につながるかどうかは、正直なところわかりません。

生活はもっと雑然としています。急に孫が走り回ってきたり、雨の日に濡れた玄関があったり、疲れた日の夕方に台所に立つことがあったりする。そういった日常の複雑さを、病棟の廊下歩行や病室でのADL練習から完全に想像しきることは難しい。

だからこそ、「これだけできれば大丈夫」という確信がなかなか持てない。その感覚は、経験を積んでも完全には消えないように思います。

この感覚に名前をつける──リミナリティ

この「宙吊りになる感覚」に、文化人類学が一つの言葉を与えてくれます。

リミナリティ(liminality)——文化人類学者ヴィクター・ターナーが、通過儀礼の研究の中で提唱した概念です。難しい言葉ですが、要するに「もう以前の状態ではないが、次の状態にもまだなっていない、あいだの時間」のことです。

ターナーはアフリカの部族の成人儀礼を研究する中で、儀礼には必ず「移行の時間」があることに気づきました。少年は儀礼を経て大人になりますが、その最中は「少年でも大人でもない」不安定な状態に置かれる。社会の外に連れ出され、アイデンティティが一時的に宙吊りになる——これがリミナリティです。

退院は、まさにこのリミナリティの瞬間ではないでしょうか。

患者さんは「入院患者」ではなくなろうとしているが、「以前の生活者」にもまだ戻っていない。病院というひとつの世界から、生活というもうひとつの世界へと移行する、その「あいだ」にいる。それは決して不自然なことではなく、大きな変化にともなう、構造的な宙吊り状態なのだと思います。

セラピストもまた、「あいだ」にいる

そしてここで気づくのですが、この宙吊り感は患者さんだけのものではないのかもしれません。

セラピストもまた、退院という場面で「あいだ」に立たされています。病院の論理(評価・訓練・数値)で患者さんを見てきた立場から、生活の論理(その人の暮らし・習慣・関係性)で判断することを急に求められる。「大丈夫ですか?」という質問への答えは、どちらの論理で考えれば正解なのか、迷いが生じます。

確信が持てないのは、能力が足りないからではないかもしれません。それはむしろ、「病院」と「生活」という二つの世界の橋渡し役を担う位置に立っているからこそ生まれる、構造的なもやもやではないでしょうか。

リミナリティを知ることの意味

リミナリティという概念を知ったからといって、退院時の不安がなくなるわけではありません。でも、「あの感覚に名前があった」と知ることで、少し楽になれることはあると感じています。

「確信が持てない」という感覚を、自分の力不足や知識不足として抱え込まなくてよいかもしれない。退院という移行の瞬間は、誰にとっても本質的に不確かなものであって、その不確かさの中で患者さんと一緒に次の世界へ向かおうとすること自体が、すでに一つのケアなのかもしれません。

患者さんの不安を支えようとしているセラピスト自身も、同じ「あいだ」を生きている。そう思うと、退院の場面が少し違って見えてくるような気がします。


参考文献】

  1. Turner, V.(1969). The Ritual Process: Structure and Anti-Structure. Aldine Publishing.(邦訳:ターナー, V.著, 富倉光雄訳(1976).『儀礼の過程』. 思索社.)

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