医療者どうしでナラティブを語り合うこと——省察的実践という視点から

医療者どうしでナラティブを語り合うこと——省察的実践という視点から ナラティブ・語り

「この患者さんと全然うまくいっていない気がする」

そんなことを、声に出せたことはありますか。

職場の休憩室で、ふとそう思うことがあっても、言葉にする前に引っ込めてしまう——私は、そんな経験が、理学療法士として働くなかで何度もありました


「語るべきでない」という空気

臨床の現場では、もやもやを抱えることは珍しくありません。患者さんの回復が思うように進まないとき、関わり方がわからなくなるとき、自分が何をすべきか見えなくなるとき。

でも、そのもやもやを同僚に話そうとすると、なんとなく躊躇してしまうことがあります。

「知識が足りないだけだ」「経験を積めばわかる」「気にしすぎだ」——そんな反応が返ってくるような気がして、あるいは自分でそう思い込んでいて、語ることをやめてしまう。臨床のもやもやは、知識や技術、あるいは諦めに近い感覚で「乗り越えるべきもの」として、職場の文化のなかに位置づいているように感じることがあります。


技術的合理性という考え方

アメリカの組織心理学者ドナルド・A・ショーンは、専門職の知の構造を分析し、「技術的合理性(technical rationality)」という概念を提唱しました。

技術的合理性とは、「基礎科学が応用科学を産み出し、応用科学が診断や問題解決の技法を産み出し、その技能がクライアントへのサービスとして提供される」という知の構造です(三輪, 2008)。要するに、「正しい知識があれば、正しい問題解決ができる」という考え方です。

この思考様式が医療の場にも浸透しているとき、臨床のもやもやは「知識不足の問題」として理解されます。だから解決策は「もっと勉強すること」になる。語り合うことではなく、個人が学び直すことが答えとして選ばれやすくなるのです。

でも、臨床の現実は、そんなに白黒がはっきりするわけではありません。


省察的実践という視点

ショーンは、技術的合理性の思考様式そのものを問い直し、「省察的実践(reflective practice)」という概念を提唱しました。リフレクティブ・プラクティスという言葉は聞いたことがありませんか?

省察的実践とは、課題を「所与のもの」として解決しようとするのではなく、不確実で不安定な現実のなかから「課題を設定する」能力を持つことです。そして、「わざ」や「暗黙知」を用いながら状況に対応していく「行為の中の省察(reflection-in-action)」を実践者自身が言語化しながら、実践と省察のサイクルを積み重ねることを意味します(三輪, 2008)。

難しい言い方をしましたが、要するに「うまくいかない経験のなかに、自分でも気づいていない知恵が身についている。それを言葉にして仲間と振り返ることが、専門職の成長につながる」という考え方です。

臨床のもやもやは、「解決すべき問題」ではなく、「省察の出発点」であると思います。


語り合うことが、省察的実践になる

私自身は、省察的実践を難しく考えずに、医療者どうしでナラティブを語り合うこと——それ自体が、ショーンの言う省察的実践の一形態になると思っています。

あの患者さんのことをどう感じたか、どう迷ったか、どう関わったか。そうした語りを交わすことで、自分が「行為の中で何を感じ、何を判断していたか」が言葉として浮かび上がってきます。それは単なる感想の共有ではなく、暗黙知を可視化し、実践の質を高めていく営みです。

でも現実には、職場にそのような場がないことも多いと感じています。カンファレンスは解決志向で、もやもやを語る余白がない。休憩室での会話は、愚痴か世間話に流れてしまう。「語り合う」という文化が専門職の成長と結びついているという認識が、まだ広まっていないのかもしれません。


おわりに

私が研究会の活動に関わっているのも、そういう場を少しでも作りたいという気持ちがあるからです。正解を出す場ではなく、もやもやを持ち寄る場。知識を披露する場ではなく、経験を言語化する場。

臨床のナラティブは、語られてはじめて意味をもつものだと感じています。あなたの職場には、そのような場がありますか。無いなら、一緒に作りましょう!


参考文献

  1. 三輪建二(2008).「専門職に求められる省察的実践とは何か」. 多文化協働実践研究・全国フォーラム 第2回抄録より抜粋.
  2. ショーン, D. A.(2007).『省察的実践とは何か——プロフェッショナルの行為と思考』. 柳沢昌一・三輪建二監訳. 鳳書房.

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