「この足がねー」——リハビリの場面でそう言いながら、他人のもののように自分の足を眺める患者さんがいます。
あるいは「人の手みたい」と、麻痺した腕を不思議そうに触れている患者さんの姿も。
そのとき、この三人称の語りは、何を意味しているのだろう、と考えることがあります。
「my leg」が「the leg」になるとき
医療人類学者の浮ヶ谷幸代は、著書『病気だけど病気ではない——糖尿病とともに生きる生活世界』(誠信書房, 2004)のなかで、ロバート・マーフィーの経験を紹介しています。
マーフィーは文化人類学者でありながら、自身が四肢麻痺を患った当事者でもありました。彼は、麻痺が進む以前は自分の身体を「私の足(my leg)」「私の腕(my arm)」と表現していたのに、病が進むにつれて「その足(the leg)」「その腕(the arm)」と呼ぶようになったと告白しています。
この変化を、マーフィーは脱身体化(disembodiment)と呼びました。要するに、「自分のからだ」が「自分のもの」ではなくなっていく感覚——身体の非人称化のプロセスのことです。
浮ヶ谷によれば、自覚症状のないまま診断を受けた人もまた、客観的な数値や画像によって「病気である」と認識させられ、自分の身体を「医療的身体」として眺めるようになります。これも脱身体化のひとつのかたちといえるかもしれません。
リハビリテーションの現場で起きていること
「この足がねー」「人の手みたい」——こうした言葉を改めて聞いてみると、患者さんは自分の手足を、まるで自分のものではないように語っています。
これはマーフィーが描いた「the leg」の感覚に、どこか重なります。病気や障害によって、かつて「私のからだ」として当たり前に使っていた部位が、ある日突然「よくわからないもの」のように感じられるようになる。
その脱身体化は、MRIや血液検査の結果、理学療法評価での数値——客観的なデータとの出会いが、「自分のからだを外側から見る」視点を生み出すことがあります。
リハビリテーションの場は、ある意味でその脱身体化と向き合いながら、患者さんが「自分のからだ」を再発見、再構築していくことを支援する場所でもある、と感じています。歩行練習や動作訓練のなかで、さまざまな生活場面を想定しながら、「これが私のからだなんだ」という知覚が少しずつ戻ってくる——そのプロセスに、私たちセラピストは立ち会っているのかもしれません。
もちろん、病院だけでの完結は難しく、社会復帰後の長期的な視点での支援が必要になってくると思います。
「障害受容できていない」という結論づけへの慎重さ。
「この足がねー」という言葉を医療者が聞いたとき、「障害受容ができていない」と結論づけることは、はたして適切でしょうか。
脱身体化は、病いや障害とともに生きるなかで生じます。それを「受容の段階に至っていない」と標準化してしまうことは、その人固有の物語を、ひとつの「正しい経過」に押し込めようとすることではないかと思うのです。
現に、障害受容という考え方そのものへの「対抗」がモチベーションになっている患者さんもいます。「絶対に諦めない」という姿勢が、その人の回復を支えていることもある。
医療者が安易に「障害受容できていない」と判断することは、患者さん自身の「自分のからだ」への向き合い方を、知らず知らず阻害してしまう可能性があるのではないでしょうか。
おわりに
「自分のからだ」は、ひとつの経験だけで作られているわけではありません。多くの体験、成功と失敗、喜びと悲しみ——幾重にも重なった経験の積み重ねのなかに、からだは存在しています。
脱身体化という視点を知ることは、患者さんの「この足がねー」という言葉を、単なる訴えとして聞き流さずに、多くのサファリングの中で生じている患者さん自身の混乱と捉えることが必要と思います。
セラピストとして、その言葉の背後にある「自分のからだ」との向き合いに対して、目を向けていられたら、と感じています。
→ 苦悩することは、創造性の源泉である
→ リハビリテーション意欲のナラティブ
→ 現象学は臨床でどう役に立つのか
【参考文献】
- 浮ヶ谷幸代(2004).『病気だけど病気ではない——糖尿病とともに生きる生活世界』. 誠信書房.
- マーフィー, R. F.(辻信一訳)(1992).『ボディ・サイレント——病いと障害の人類学』. 新宿書房.



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