「わかってはいるんですけど、なかなか……」
そう言いながら目を伏せる患者さんに、どう言葉を返せばいいか迷ったことが何度もあります。食事療法の大切さは、患者さん自身も十分に理解している。でも、「理解している」ことと「実践できる」ことのあいだには、思った以上に大きな距離があるように感じます。
その距離は、意志の弱さや怠慢から生まれているのでしょうか。今回は、食べることそのものの意味から、少し考えてみたいと思います。
食べることは「世界との出会い」
文学・言語学者のミハイール・バフチーンは、著書の中でこう述べています。食べることは人間の最も重要な生活現象であり、そこには「世界との出会い」という意味が伴っている——世界を味わい、世界の味を感じとり、世界を自分自身の一部とする行為である、と。
難しい言い回しですが、要するに「食べることは、ただ栄養を摂ることではない」ということだと思います。家族と囲む食卓、友人と笑いながらつつく鍋、職場の同僚との昼食——食事はいつも、誰かとの関係の中にあります。
糖尿病の食事療法は、この「世界との出会い」に、直接介入します。家族の食卓でひとりだけ別のものを食べる。あるいは、家族全体の食事の内容が変化する。歓迎会の席で料理に手をつけられない。「社交したくてもできない」という本音を抱えながら、それでも実践しようとしている患者さんは少なくありません。食事療法は紛れもなく、その人の社会生活に影響を与えているのです。
セルフ・コントロールという道徳観
文化人類学者の浮ヶ谷幸代は、先進国における慢性疾患の治療理念が「セルフ・コントロール」というスローガンへと向かっていることを指摘しています。そしてそこには、「やればできる」という努力・勤勉・従順を肯定的に評価し、「やらない」「やりたくない」を怠慢・わがまま・甘えとして否定的に評価する、近代的な道徳観が投影されていると述べています。
この視点に触れると、「わかっているけどできない」という言葉の重さを改めて考える必要があります。
患者さんが食事療法を「できない」とき、それは意志の問題だけではないかもしれません。食べることが社会関係の中にある以上、食事療法の実践は、個人の努力だけでは完結しない。家族の理解、職場の空気、友人との関係——そういったものが複雑に絡み合っています。さらに、食事がストレス解消の手段になっている方にとっては、その制限が心理的な負荷にもなりえます。
「できない」を道徳的な失敗として捉えることは、その複雑さをすくい取れていないのではないでしょうか。
「わかっているけどできない」から、新しい意味へ
では、どうすればよいのか——と問われると、簡単には答えられません。ただ、ひとつ感じていることがあります。
「わかっているけどできない」という状態から動くためには、医学的な数値だけをフィードバックするのではなく、社会生活の中での変化を一緒に見つけていくような関わりが必要なのではないかと思います。血糖値が少し改善した、ではなく——食事を意識するようになってから、家族との会話が変わった。外食の選び方が変わって、少し気持ちが楽になった。そういった「生活の中の変化」を前向きに受け取り、実践に新しい意味や価値を見出していけるような関わりです。
食事療法が、義務や我慢ではなく、少しでも「楽しい」「自分らしい」と感じられるものになること。それは非常に難しいことですが、そこに向かうための働きかけが、医療者にも求められているのではないかと感じています。
おわりに
文化人類学に触れると、「当たり前」と思っていたことが、そう単純ではないと感じさせられます。健康はコントロールできる、体重はこうあるべき——そういった規範的な価値観の上で動いている社会の中で、患者さんは「わかっているけどできない」という言葉を口にしています。
その言葉を、怠慢や甘えとして受け取るのではなく、食べることが持つ豊かな意味と、社会生活の複雑さの中に置き直すこと。それが、患者さんの語りに近づく第一歩になるのかもしれないと思います。
→ 生活習慣は、そんなに簡単には変えられない
→ 「病いの語り」をそのまま受け止める
→ 言葉や行動ではなく”文脈”に注目する
【参考文献】
- バフチーン, M.(渡辺和男訳)(1973).『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』. せりか書房.
- 浮ヶ谷幸代(2004).『病気だけど病気ではない』. 誠信書房, pp.115-138.



コメント