「そばにいることしかできない」と感じるとき——時間と、第三者としての医療者

「そばにいることしかできない」と感じるとき——時間と、第三者としての医療者 内省・関わり

臨床にいると、患者さんが望む結果を諦めざる負えないことがあります。

病気の予後がそうであったり、これまで担ってきた役割の喪失がそうであったり。回復を願う気持ちとは別のところで、現実的には乖離してしまっていることがあります。

もちろんリハビリテーションは身体的な回復のみが目的ではありません。一方で、求められている結果を出すことはできないと知りながら、その時間をともに過ごすことになります。


「そばにいることしかできない」という感覚

患者さんの求めている結果という側面だけで考えれば、この時間、私はそばにいることしかできていないことになります。

セラピストは時間単位で関わる仕事なので、その場を物理的に離れることはありません。でも、心の中で「考えないようにする」ことは、してしまうかもしれません。この方の望みは叶わないという事実を、いったん脇に置いて、目の前のメニューを淡々とこなす。そうやって自分を守ることが、私にもあった気がします。

でも、そばにいるということ(寄り添うということ)を、放棄するべきではないのだと私は思います。


もやもやを共有するということ

では、そばにいて何をするのか。

大切なのは、患者さん自身のもやもやを共有することなのではないかと感じています。解決するのではなく、答えを出すのでもなく、そのわからなさのそばに一緒にいること。

これは、以前から書いてきたネガティブ・ケイパビリティ——答えの出ない事態に耐える力——とつながっています。帚木蓬生は第四章「ネガティブ・ケイパビリティと医療」の中で、まさに医療の場でこの力がどう働くかを論じています(帚木, 2017, p.78-89)。

ネガティブ・ケイパビリティ——答えを急がず、患者さんの語りに耳を傾ける


時間が解決してくれることがある

そしてもうひとつ、現場にいて思うことがあります。

時間が解決してくれることは、間違いなくある、ということです。

診断を受けた直後には受け止めきれずにいた気持ちが、数週間後には少しずつ落ち着いてくる。役割を失ったという苦しみ(サファリング)が、別のかたちの日常の中で、意味のあるものに変わっていく。医学的な状態は変わらなくても、その人の中での意味づけは、時間とともに動いていきます。

サファリング(suffering)とは?──Kleinmanが問う「苦しみ」という経験の本質

帚木も、答えの出ない事態において時間が果たす役割について述べています(帚木, 2017, p.78-89)。すぐに解決しないものを、時間に任せることがあってもいいのだと思います。。

そして、時間が解決してくれると信じられるからこそ、その時間をともに過ごすことに意味が生まれます。そばにいることは、何もしていないことではありません。大切なのは、解決までの時間を、一人にしないということです。


第三者としてナラティブを聴く

もやもやを抱えているとき、人はなかなか一人では乗り越えられません。

だからこそ、聴く相手が必要になります。ここで、医療者という立場の特異性があるように思います。私たちは、家族でも知人でもありません。第三者です。

家族には言えないことがあります。心配をかけたくない、迷惑をかけたくない、弱音を吐けば関係が変わってしまうかもしれない——近しい関係だからこその言いにくさが、確かにあります。

その点、医療者は少し離れた場所にいます。日常の外側にいて、それでも定期的に会う人。この距離だからこそ聴けるナラティブが、確かにあるのだと感じています。

「耐える」の先に、共感がある——帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』を読む


おわりに

「そばにいることしかできない」——そう感じるとき、私たちは自分の関わりを過小評価してしまっている場合があります。

時間が解決してくれるものがあり、その時間を一人で過ごさなくてすむように第三者としてそこにいる。それは「しかできない」ことではなく、医療者だからこそできることなのではないでしょうか。

結果を出せない時間を、無力な時間と呼ばなくていいのだと思います。もし日々の臨床で、気持ちが重たくなり、私ってセラピストに向いてないのかなって思うことがある人は、このことを知っておいてもらえたら胸の重荷が少し取れるのではないのかなと思います。

もやもやを抱えるということは、医療者としての資質があるのではないでしょうか?


参考文献:
帚木蓬生(2017).『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』. 朝日新聞出版.(第四章「ネガティブ・ケイパビリティと医療」p.78-89)

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