医療の世界では、各専門職がプロフェッショナリズムを持ち、専門職としてのアイデンティティを確立することの重要性がいわれています。理学療法士として、看護師として、医師として——自分の専門性を持つことは必ず必要です。
でも、帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』を読み進める中で、この「確立」が必ずしもポジティブな要素だけではないのではと考えさせられました。今回はその読書メモです。
キーツの「個性を持たないで存在する」
前回に続き、帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(2017)からです。詩人キーツがこの概念に至った経緯について、帚木は次のように書いています。
キーツは、真の才能は個性を持たないで存在し、性急な到達を求めず、不確実さと懐疑とともに存在するという考えに至ります。この能力こそが、シェイクスピアのように、他の人間がどう考えているかを想像する力に直結すると結論したわけです。(帚木, 2017, p.13-36)
個性を持たないで存在する——とても驚きを与えてくれる言葉です。私たちは普段、個性を持つこと、自分を確立することを良いことだと考えています。でもキーツは、シェイクスピアについて、作品の中で多様な人間を描けたのは、自分というものをしっかりと持っていたからではなく、むしろ自分を空にして、不確実さの中にいられたからだと考えたのです。
要するに、自分のアイデンティティに疎い人ほど、他者が見える、ということです。
専門職アイデンティティで見えなくなってしまうもの
この視点を医療に持ち込むと、少し緊張が生まれます。
医療者の教育は、キーツの言葉とは逆の方向を向いているからです。専門的知識を身につけ、職業的な自己を確立し、「私は理学療法士としてこう考える」と言えるようになること。この専門職のアイデンティティは、質の高い医療を提供するために必須な能力ではあります。
→ カンファレンスで意見がまとまらないのはなぜか——職業文化と「患者」
以前の記事で書いたように、職業文化は無意識のうちに医療者を形作っていきます。それ自体は避けられないことですし、悪いことでもありません。
でも、キーツの言葉は強固な専門的視点は、他者を想像する際に障壁になってしまう可能性があるということを示唆しています。
専門家であるがゆえに、見えなくなるもの
当然のことですが患者さんを理解するとは、疾患を理解することだけではありません。その人を、一人の生活者として理解することです。
私自身、医療者としての知識を持っています。でも、そのせいで、一般的な生活者としての視点は、すでに薄くなってしまっているかもしれません。
これまで学んできた知識や技術は消せません。もちろん消す必要はありません。「自分の見方は専門家のものに偏っているかもしれない」と自覚することが大切だと思います。その自覚が、キーツの言う「個性を持たないで存在する」への、医療者なりの方法なのかもしれません。
→ 「耐える」の先に、共感がある——帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』を読む
おわりに
専門性は非常に重要です。求められているのは、必要なときに、専門家としての自分をいったん脇に置けることです。
評価や治療の場面では専門職として考え、患者さんの語りを聴く場面では、生活者としての想像力に切り替える。この二つを行き来する能力が大切だと思います。
参考文献:
帚木蓬生(2017).『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』. 朝日新聞出版.(p.13-36)



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