急性期病院では、患者さんとの時間が短いです。
入院から退院まで、長くて数週間。その間にリハビリで関わり、ある日突然、転院か退院かで関係が終わります。「お世話になりました」という言葉とともに病棟を去っていく後ろ姿を見送ったあと、ふと思うことがあります。
あの患者さん、今どうしているだろう。
積極的だった患者さんのこと
毎日のリハビリを楽しみにしてくれていた患者さんがいました。「今日は何をするんですか」と聞いてくれる人、少し良くなるたびに顔を輝かせる人。退院のとき、「先生のおかげです」と言ってくれることもあります。
でも、家に帰ってからどうなったか、私には知る手段がありません。あれほど意欲的だった人が、生活の中でリハビリを続けられているか。転倒していないか。もどかしさを感じながらも、日常を取り戻せているか。
積極的だった患者さんほど、「その後」が気になります。あの意欲が、生活の中でも続いていてほしいと思うから。
消極的だった患者さんのこと
一方で、リハビリに気乗りしない様子だった患者さんのことも、同じように頭に残ります。
「今日はしんどい」「もうええわ」——そう言いながら、それでも毎回、リハビリに向き合ってくれた人。私の関わり方が合っていたのか、もっと別のアプローチがあったのではないか。転院や退院が決まったとき、何か言い残したことがあったような気持ちになります。
消極的に見えた患者さんが、実はどんな気持ちでいたか。あの「しんどい」の言葉の奥に、何があったか。退院してから、やっと答えが出てくることもあるかもしれないと思うと、関係が終わったあとも、その問いだけが残ります。
知ることができない、という前提で
急性期のセラピストは、患者さんのその後をほとんど知ることができません。それはこの仕事の構造的な特徴でもあります。
転院先での生活がうまくいっているかどうか、自宅での動作が安定しているかどうか——それを知る機会がないまま、次の患者さんとの関わりが始まります。
「あの人、今どうしているだろう」という問いに、答えは出ないまま積み重なっていきます。
ただ、その問いが残り続けること自体が、関わりの痕跡なのかもしれないと、最近は思うようになりました。積極的だった人も、消極的だった人も、同じように頭に浮かぶということは、どちらの患者さんとの時間も、自分の中に何かを残しているということだと感じています。
→ リハビリ意欲はなぜ上がらない?「やる気」は生活史に根ざしている
→ 「本当に家に帰って大丈夫?」──退院場面で医療者が抱える不安について



コメント