「耐える」の先に、共感がある——帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』を読む

「耐える」の先に、共感がある——帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』を読む 読書メモ

「患者さんに共感することが大切です」——医療者なら、何度も聞いてきた言葉ですよね。

でも、共感とは、簡単にしようと思ってできるものなのでしょうか。「わかります」と口にすることと、本当にわかることのあいだには、大きな乖離があるように感じます。

帚木蓬生氏『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(2017)を読んで、この乖離を埋める手がかりが書いてありました。今回はその読書メモです。


ネガティブ・ケイパビリティとは

ネガティブ・ケイパビリティとは、不確かさの中で事態や状況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいることができる能力のことです(帚木, 2017)。

この概念の背景——詩人キーツが見出し、精神科医ビオンが医療の世界に広めた経緯——については、以前の記事で書きました。

ネガティブ・ケイパビリティ——答えを急がず、患者さんの語りに耳を傾ける

帚木氏はこの能力を「耐える力」の説明で終わらせていません。


「耐える」の先にあるもの

帚木氏は、この本の冒頭で本質を述べています。ネガティブ・ケイパビリティは、単に宙ぶらりんに耐えるための力ではなく、対象の本質に深く迫る方法であり、相手が人間なら、相手を本当に思いやる共感に至る手立てである、というのです(帚木, 2017, p.3-12)。

これは、考えてみれば逆説的で不自然に感じる論考です。「答えを出さない」「わからないままでいる」という一見消極的な態度が、実は相手を最も深く理解する道であり、共感するという入口になっている。

それはなぜなのか。おそらく、性急な理解は、相手を自分の枠組みに当てはめることだからです。「この人はこういう人だ」と早々に結論づけたとき、私たちはもう相手ではなく自分の枠組みに入れてしまっています。つまり、自分の作った像を見ています。わからなさに持ちこたえるとは、その結論を保留し続けることで、相手の本質を理解しようと考え続けることであると思います。


臨床での「わかったつもり」を考える

この視点から、臨床での自分の「共感」を振り返ってみます。

患者さんのつらい話を聞いたとき、私たちはつい「わかりますよ」と言ってしまいます。沈黙が怖くて、何か言葉を返さなければと焦る。その「わかります」は、相手のためというより、宙ぶらりんに耐えられない自分のための言葉だったのではないか——そう感じることがあります。

本当の共感は、たぶんもっと時間がかかります。わからないまま、それでもそばにいて、聴き続ける。結論を急がず、不思議さや疑いの中にとどまる。その持ちこたえの先に、ある日ふと、相手の世界が少しだけ見えてくる。共感とは、その瞬間に届くものなのかもしれません。

結末のない語りを、そのまま聞く——ネガティブ・ケイパビリティとナラティブ


おわりに

共感は、技法ではないのだと思います。簡単に答えを見つけようとせず、様々な文脈で考え続けることなのかもしれません。

「共感的態度」はスキルとして教えられ、練習することもできます。でも、その土台には、答えの出ない相手のわからなさに持ちこたえる力が要る。ネガティブ・ケイパビリティは、共感の反対側にあるものではなく、共感を支えるとても重要なものだと思うのです。

わからないことを、恥じなくていい。わからないままそばにいることが、思いやりへの道になっている——帚木のこの逆説を、臨床の中で忘れずにいたいと感じています。


参考文献:
帚木蓬生(2017).『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』. 朝日新聞出版.(p.3-12)

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