患者さんとセラピストの揺らぎ——ナラティブから考える

患者さんとセラピストの揺らぎ——ナラティブから考える ナラティブ・語り

理学療法士の学会において、患者さんや対象者さんのナラティブに着目するセッションが開催されることが多くなりました。

ナラティブを理解し、個別性を重視すること。対話し、寄り添いながら関わっていくこと。それは大切なことです。そして同時に、まったく異なる文化を持つ立場どうしの出会い——以前まとめた異文化コミュニケーションに近いことでもあります。

医療の現場は実は異文化コミュニケーションである -医療者と患者の”あたりまえ”がすれ違うとき


患者さんが経験する「非日常」

患者さんは、生活者としての立場から出発します。

そこに診断が下り、病名がつき、病院に入院します。病者としての役割を与えられ、今までの日常が崩れ、非日常を経験することになります。

そしてリハビリテーションにおいては、目標を持って懸命に取り組むべきだという規範を与えられることになります。

生活者が病人になるとき、何が起きているのか——無意識に進む社会的な移行


患者さんの揺らぎ

そんな現状に問題を見出し、ナラティブを議論することが増えてきた今日ですが、その中で語られていたのが、患者さんの揺らぎでした。

患者さんは、日々揺らぎの中で生きています。

絶対に諦めたくないという気持ち。一方で、折れてしまいそうな気持ち。医療者が示す目標では満足できない気持ち。受け入れなければならないのか、という気持ち。

その揺らぎの中で、障害と関わっています。


セラピストもまた、揺らいでいる

そして、リハビリの際に患者さんの揺らぎを間近で見ているセラピストもまた、揺らいでいるのだと思います。

医療者であるがゆえに、リスクを冒せないこと。予後予測をして介入すること。無理にでも前向きになってほしいと思うこと。

私たちは、生活者として患者さんを大切にしつつも、医療者として責任を持って医学的な見地から接する必要があるという葛藤を抱えています。

星野晋は、医療者と生活者の物語が出会うところについて論じています(星野, 2006)。その出会いの場に立っているのは患者さんだけではなく、私たち自身でもあるのだと感じます。


医療者の揺らぎも、自覚する

私は、医療者の揺らぎも自覚していく必要があると思います。

そして、それを打ち明けられる場が必要だと思います。

学会や研究会では、患者さんの揺らぎが熱心に議論されるようになりました。でも、その場にいる私たち自身の揺らぎは、どれだけ言葉にされているでしょうか。

「ナラティブなんて非科学的だ、大切なのはエビデンスだ」——そう言う方々は、だいぶ減ってきたように感じます。なぜなら、エビデンスを追求してきた医療者こそが、ナラティブを必要だと感じているからではないでしょうか。

医療者どうしでナラティブを語り合うこと——省察的実践という視点から


おわりに

私たちも、患者さんも、揺らぎ続けています。

その揺らぎを議論し続けること。答えの出ないものを抱える勇気。それが、いま求められているのだと思います。

ネガティブ・ケイパビリティ——答えを急がず、患者さんの語りに耳を傾ける


参考文献:
尾藤誠司 編(2007).『医師アタマ——医師と患者はなぜすれ違うのか?』. 医学書院.
星野晋(2006).「医療者と生活者の物語が出会うところ」. 江口重幸・斎藤清二・野村直樹 編『ナラティヴと医療』. 金剛出版, p.71.
シャロン, R.(2015).『ナラティブ・メディスン——物語能力が医療を変える』. 医学書院, pp.155-189.

コメント