生活者が病人になるとき、何が起きているのか——無意識に進む社会的な移行

生活者が病人になるとき、何が起きているのか——無意識に進む社会的な移行 文化・医療人類学

パーソンズの「病人役割」という概念を、私はずっと知りませんでした。

理学療法士として何年も働いてきて、患者さんの戸惑いや、時に「問題行動」と呼ばれてしまうような振る舞いに出会ってきました。なぜこの方はこんなに不安そうなのだろう。なぜ急に怒り出したのだろう。そのたびに、その人の性格や、疾患による影響として理解しようとしていた気がします。

でも、この社会学の概念を知ったとき、そうした戸惑いが少し理解できた気がしたのです。あれは個人の問題ではなく、生活者が病人になるという移行の中で起きていることだったのかもしれない、と。


病人になるとは、社会的な移行である

社会学者タルコット・パーソンズは、病人役割(sick role)という概念を提唱しました。

田中恒男の論文では、この考え方が「病気は生理的な異常であると同時に、社会的な逸脱の一種である」と説明されています(田中, 1979)。

つまり、病気になるということは、身体に何かが起きるだけの出来事ではありません。その人が社会の中で占める位置そのものが変わる、ということなのです。生活者だった人が、病人という別のカテゴリーに移される。移行が起きているのです。

医療における病人とは?──病気を社会が定義する「病人役割」


無意識のうちに進む、いくつもの変化

では、この移行に伴って何が起きるのでしょうか。パーソンズが挙げた病人役割の特性から考えてみます(田中, 1979)。

役割が免除される。病気の間は、仕事や家事などの通常の役割を果たさなくてよいとされます。一見ありがたいことですが、裏を返せば、これまで担ってきた役割を失うということでもあります。家計を支えてきた人、家族の食事を作ってきた人が、その役割から降ろされる。

責任の所在が変わる。病気になったことは本人の責任ではないとされる一方で、自分で決めていたことが決められなくなります。食事の内容も、起きる時間も、外出するかどうかも、自分では決められない。

回復に努める義務が課される。病人は治ろうと努力しなければならない、という期待が向けられます。リハビリを頑張ることが「良い患者」の条件になっていく。

医療者に従うことが期待される。専門家の指示に従うことが、病人役割の一部として組み込まれています。

これらは、どこかに書かれた規則ではありません。誰かが説明してくれるわけでもない。暗黙のうちに作動するものです。だからこそ、本人も医療者も気づかないまま、移行は進んでいきます。


戸惑いや「問題行動」の背景にあるもの

この視点に立つと、臨床で出会う場面が少し違って見えてきます。

やたらと自分でやろうとして制止される方。指示に従わないと記録に書かれてしまう方。急に感情を爆発させる方。「せん妄かもしれない」「性格的に頑固な方だ」と説明されることもあります。

でも、その背景に、移行への抵抗があるとしたらどうでしょうか。つい先日まで自分で決めて生きてきた人が、突然すべてを委ねる立場に置かれる。その落差に、戸惑わないほうが不思議なのかもしれません。

もちろん、すべてがこれで説明できるわけではありません。医学的な要因は当然あります。ただ、社会的な移行という補助線を一本引くだけで、理解の幅が変わることは確かにあると感じています。

医療の社会的背景を「役割」で考える


セラピストは、移行の只中にいる人と関わっている

ここで、リハビリテーションという営みの特殊性を考えます。

私たちセラピストは、病人役割から生活者へ戻っていく過程に伴走する仕事です。もう一度自分で決め、自分で動き、自分の役割を取り戻していく——その道のりを一緒に歩みます。

でも同時に、私たちは病人役割を強化する側でもあります。訓練の指示を出し、それに従ってもらう。「よく頑張っていますね」と評価する。この関わりは、回復を支える一方で、「指示に従う人が良い患者である」という構造を、静かに補強してもいるのです。

この両面性を持っていることを、忘れずにいたいと思います。


おわりに

目の前にいるこの人は、つい先日まで生活者でした。

仕事をして、買い物をして、誰かの相談に乗って、自分のことは自分で決めていた人です。その人がいま、病人という位置に移されて、戸惑いの只中にいる。

その移行が無意識のうちに進んでいることを知っておくだけでも、関わり方は変わるのではないでしょうか。私自身、この概念を知ってから、患者さんの振る舞いを「その人の問題」として片づけることが減った気がしています。


参考文献:
田中恒男(1979).「医療における患者の役割」.『糖尿病』22(2), 224-227.

コメント