「やる気がない」で終わらせない——医療の二元論と患者さんの物語

「やる気がない」で終わらせない——医療の二元論と患者さんの物語 内省・関わり

「正常値は良い、異常値は悪い」——医療の現場では、こうした2つの見方、二元的な枠組みが当たり前のように使われています。血圧、血糖値、歩行速度、活動量。数値や行動が「基準」を上回れば良好、下回れば問題という規範が、知らず知らずのうちに患者さんへの見方を形作っていることがあります。

そしてその医療者としての規範は、患者さんの行動が「基準」から外れたとき、「セルフコントロールが不十分だ」という解釈につながりやすくなります。


「やる気がない」という解釈の落とし穴

入院中の患者さんが、ベッド上の運動はしてくれるのに、歩行練習になると拒むことがあります。

そのとき、「やる気がないのかな」と思ってしまうことは、セラピストとして正直に言えば、私にもありました。活動することが回復につながるという医療者の文脈の中では、歩かない=悪い、拒む=意欲の問題、という解釈が自然に生まれてきます。

でも、これは二元論的な枠組みがそのまま現れた解釈です。「歩く/歩かない」を「良い/悪い」に変換し、そこからの逸脱を患者さん自身の問題として帰属させてしまっているのだと思います。


患者さんの側に立ってみると

では、歩くことを拒んでいる患者さんは、何を考えているのでしょうか。

これを想像することが私は重要だと思うのです。

完全ではない身体の状態で動くことへの不安。「無理をしたら、何か悪いことが起きるかもしれない」という恐れ。前回のリハビリで痛みが出たこと、疲れたこと。転倒して受傷したときの記憶。そうした積み重なりの上に、「今日は歩きたくない」という判断があるのかもしれません。

それは怠惰でも、意欲の欠如でもありません。その人なりのしっくりとくる論理と経験の中から生まれた選択です。医療者の枠組みからは「問題行動」に見えても、患者さんの側には、それなりの理由がある。


病いの語りという視点から

医療人類学者のアーサー・クラインマンは、患者さんが医学的な説明とは別に、自分なりの「病いの語り」を持っていることを示しました。病いの語り(illness narrative)とは、「自分はなぜこうなったのか」「どうすれば良くなるのか」「この病気は自分にとって何を意味するのか」という、患者さん自身が作り上げた物語のことです(クラインマン, 1996)。

この視点から見ると、歩行を拒む患者さんには、歩かないことが「正しい」と感じられる物語がある、ということになります。医療者にはその物語が見えていないかもしれない。そして、見えていない部分を「やる気の問題」で埋めてしまっているとき、二元論の弊害が最も大きく現れているのかもしれません。

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おわりに

「良い/悪い」の枠組みを常に当てはめないということは難しいと思います。医療は評価と判断の積み重ねであり、基準なしには動けません。

ただ、その枠組みに当てはめる前に今一度考えてみることはできると思います。「なぜこの方は歩こうとしないのだろう」——そう思いを向ける一歩が、患者さん自身で成り立っている物語に近づく入口になるのではないかと感じています。


参考文献

  1. クラインマン, A.(1996).『病いの語り——慢性の病いをめぐる臨床人類学』. 江口重幸・五木田紳・上野豪志訳. 誠信書房.(原著1988年)

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