リハビリテーションの目的は社会復帰である——明確にそう学んだわけではないですが、そうなのではないかという考えをセラピストは持っていることと思います。
でも臨床に出ると、その言葉と現実のあいだで悩んでしまうことがると思います。
社会復帰までの道のりは、患者さんによってそれぞれです。順調に職場へ戻っていく方もいれば、思うように回復が進まず、当初の目標を変更せざるを得ない方もいます。理想的な結果に導くことができないことも、決して少なくありません。そのたびに、「自分の関わりはこれでよかったのだろうか」というジレンマが残ります。
こんな気持ち。同じような思いを抱えながら臨床に取り組んでいるセラピストは、多いのではないでしょうか。
ジレンマはどこから来るのか
このジレンマについて、少し考える必要があると思います。
ジレンマを感じるとき、私の中には「この患者さんは、こうなるべきだった」という理想像があります。発症前の生活に戻る。元の職場に復帰する。家庭での役割を取り戻す——そうした「あるべき姿」と現実との差が、ジレンマとして立ち上がってくるのです。
つまり、このジレンマは患者さんの側にあるのではなく、私たちの側の「こうあるべき」から生まれているという側面もあります。
もちろん、理想を描くこと自体が悪いわけではありません。目標がなければリハビリテーションは組み立てられませんし、より良い回復を願うことはセラピストの誠実さでもあります。でも、その理想像がいつのまにか「正解」になり、患者さんの現実を測る物差しになってしまうとき、何かがずれ始めるように思います。
「決めつけない」ということ
そんなとき、私が大切だと思うのは、他の記事でも何度も述べてきていますが「こうあるべきだ」と決めつけてしまわないことです。
社会復帰の形は、患者さんの数だけあります。元の職場に戻ることだけが復帰ではありません。働き方を変えること、家庭での新しい役割を見つけること、地域とのつながりを取り戻すこと——どれも、その人にとっての社会との再会です。
理想の形に導けなかったことは、失敗ではないのだと思います。私たちにできるのは、「あるべき姿」へ引き上げることではなく、その人なりの復帰の形を、その人と一緒に探していくことなのではないでしょうか。
「社会復帰」を広く捉え直す
そもそも、リハビリテーション(rehabilitation)という言葉は、「再び(re)人間に適した状態(habilis)にする」という語源を持ち、単なる機能回復や職場復帰ではなく、人間らしく生きる権利の回復——全人間的復権——を意味する言葉でした。
この視点に立つと、「社会復帰」の「社会」も、もっと広く捉えられるように思います。職場だけが社会ではありません。家族との食卓も、近所とのあいさつも、趣味の集まりも、その人が人として誰かとつながる場は、すべて社会です。
理想的な社会復帰に届かなかったように見えるときでも、その人の「人間らしい生活の回復」は、別の形で進んでいることがあります。それを見落とさない目を持ちたいと感じています。
→ 「リハビリテーション」という言葉が本来意味するもの——読書メモ
おわりに
このジレンマに、明確な解決策はないのだと思います。
理想と現実のあいだで悩んでしまうこと。うまく導くことができなかったという思いが残ること。それはおそらく、セラピストという仕事から切り離せないものです。
でも、ジレンマを無理に解消しようとせず、抱えたまま患者さんと関わり続けること——「こうあるべき」を一度わきに置いて、その人の現実から一緒に考え始めること——それができること自体が、セラピストの力なのではないかと、いまは感じています。
※ 本記事の内容は、リハビリテーションや社会復帰についての一般的な見解ではなく、臨床経験にもとづく私個人の考えです。ジレンマとの向き合い方は、セラピスト一人ひとり違っていてよいものだと思っています。
→ ネガティブ・ケイパビリティ——答えを急がず、患者さんの語りに耳を傾ける



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