結末のない語りを、そのまま聞く——ネガティブ・ケイパビリティとナラティブ

結末のない語りを、そのまま聞く——ネガティブ・ケイパビリティとナラティブ ナラティブ・語り

物事を考えるとき、臨床で患者さんの治療にあたっているとき、私たちはどこかで「ポジティブな結末」を前提にしていないでしょうか。

努力すれば報われる。治療を続ければ良くなる。困難には意味がある。きっと立ち直ってくれるはずだ。——物語には良い結末や、納得のいく文脈があるはずだという感覚です。

でも臨床にいると、実際はそうではないと感じることがあります。良くならないまま続く病い。意味づけようのない出来事。筋道の見えない語り。医療の現場には、きれいな結末に向かわない物語が多かれ少なかれ存在しています。


「回復の物語」への期待

社会学者のアーサー・フランクは、病いの語りにはいくつかの型があることを示しました。その代表が回復の物語(restitution narrative)——「病気になったが、治療によって回復し、元の生活に戻る」という筋書きの語りです。

以前の記事で書いたように、「昨日より今日、今日より明日」という方向性の感覚は、患者さんに希望をもたらします。医療そのものが、この回復の物語を標準的な筋書きとして期待している、と言ってもよいかもしれません。

「昨日より、良くなっていますよ」——看護師の言葉が届いたとき

でも、すべての病いの経験が、この筋書きに収まるわけではありません。


結末のない語り——混沌の物語

フランクは、回復の物語に収まらない語りの型として、混沌の物語(chaos narrative)を挙げています。

混沌の物語とは、筋道も結末も見えないままの語りです。「そして、それから、また……」と出来事が積み重なるだけで、どこにも向かっていかない。改善の見通しも、意味づけも、教訓もない。語っている本人にも、全体像がつかめていない語りです(Frank, 1995/フランク, 2002)。

この語りは、聞き手を不安にさせます。だから医療者は、混沌の語りを前にすると、つい「修正」したくなります。「でも、少しずつ良くなっていますよ」「この経験にもきっと意味がありますよ」——善意から出る言葉ですが、それは患者さんの語りを、聞き手が安心できる回復の物語へ書き換えようとする行為でもあります。

ポジティブな結末があるはずだ、という私たちの前提が、結末のない語りをそのまま受け取ることを難しくしているのです。


ネガティブ・ケイパビリティとナラティブの交差点

ここで、以前紹介したネガティブ・ケイパビリティ——答えの出ない事態に耐える力——が重要になってくると思っています。初めてこの言葉と概念を知ったとき凄く重要なことだと確信しました。

ネガティブ・ケイパビリティ——答えを急がず、患者さんの語りに耳を傾ける

そして、ネガティブ・ケイパビリティとナラティブには、深い共通点があると感じています。それは、曖昧さやもやもやを、性急に解決せず、そのそばにとどまって考え続けるという姿勢です。

混沌の語りを聞くには、結末を用意しないまま聞き続ける力が要ります。「この話はどこに向かうのか」「どう応えれば正解なのか」がわからない宙ぶらりんの状態に、耐え続ける必要があるからです。それはまさに、ネガティブ・ケイパビリティの働きそのものではないでしょうか。

逆に言えば、ナラティブに耳を傾けるという営みは、ネガティブ・ケイパビリティを日々鍛えていることになるということなのかもしれません。


おわりに

すべての物語に、ポジティブな結末があるわけではありません。それでも人は語り、誰かに聞いてもらうことを必要としています。

結末のない語りを、結末のないまま受け取ること。意味づけを急がず、もやもやとともにそこにいること。それは決して「何もしていない」のではなく、その人の経験をありのままに尊重するという、確かな関わりなのだと感じています。


参考文献:
フランク, A. W.(2002).『傷ついた物語の語り手——身体・病い・倫理』. 鈴木智之訳. ゆみる出版.(原著1995年)

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