「専門的知識」と「体験的知識」——セルフコントロールをめぐる、二つの語り

「専門的知識」と「体験的知識」——セルフコントロールをめぐる、二つの語り 文化・医療人類学

「わかってはいるけど、どうしてもできんのよ」

食事、運動、服薬。慢性の病いとともに生きる患者さんから、何度もこの言葉を聞いてきました。

私たち医療者は、専門的な知識をもとに、患者さんにセルフコントロールを求めます。何を食べればよいか、どのくらい動けばよいか、どう薬を飲めばよいか。伝える内容は、医学的には正しいはずです。

それでも、認識のレベルではわかっているのに、実践のレベルではうまくいかない——そういう方々に、何度も出会います。

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専門的知識と体験的知識

このギャップを考えるうえで、ヒントになる視点があります。

医療人類学者の浮ヶ谷幸代は、糖尿病とともに生きる人々を描いた『病気だけど病気ではない』の中で、専門的知識体験的知識という二つの知識について論じています。

要するに、
専門的知識とは、医学や研究にもとづいて体系化された知識のこと。
体験的知識とは、病いを実際に生きるなかで、その人自身が身につけてきた知識のことです。

なお、体験的知識(experiential knowledge)という概念は、もともと社会学者のトマシーナ・ボークマンが、セルフヘルプ・グループの研究の中で提唱したものとして知られています(Borkman, 1976)。当事者が体験を通して得た知識を、専門家の知識とは別の、固有の知識として位置づけた考え方です。体験的知識は専門的知識を凌駕することさえあるとも述べています。


医療者の語りと、生活者の語り

私は、この二つの知識が、医療者の語り生活者の語りをそれぞれ表しているように感じています。

医療者の語りは、専門的知識で組み立てられています。根拠があり、一般化されていて、誰にでも当てはまるように作られています。

一方、患者会などで生活者同士が語り合う場には、まったく違う種類の知識があります。たとえば「外食のときは、最初に野菜を頼むようにしている」「少し疲れるなぐらいの運動が身体や気持ち的にも清々しい」——実践の中で試し、失敗し、自分なりに身につけてきたセルフコントロールです。

どちらが良いというわけではありませんが、認識レベルではわかっているのに実践レベルで困難を感じている方々の解決策のヒントになるのかもしれません。

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体験的知識は、ときに医学的に間違っている

ただ、ここには注意が必要です。

体験的知識は、時折、医学的に間違っている可能性があるということです。

たとえば「これを食べていれば、薬は減らしてもいい」「痛みが出るぐらいの方が効果的だ」——本人にとっては実感に裏打ちされた知識でも、医学的には危険なこともあります。仲間同士の対話の中で、それが共有され、広がっていくこともありえてしまいます。

だからといって、頭ごなしに否定すれば、その人が積み上げてきた経験ごと否定することになってしまいます。

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聴いてから、重ねる

では、医療者はどのように対応すればいいのでしょうか。

私は、まず体験的知識を丁寧に聴き取ることだと思っています。その人が、どんな経験から、どんな工夫を身につけてきたのか。そこにどんな意味があるのか。

そのうえで、専門的知識を加えていく。否定するのではありません。そうやって二つの知識のあいだで折り合いをつけていくことが、医療者にできることなのではないでしょうか。

専門的知識だけでは、実践に向かわないことがある。体験的知識だけでは、時に間違っている可能性がある。つまり、その両方を持ち寄れる関係が、セルフコントロールを支えるのだと感じています。


おわりに

「わかってはいるけど」——この言葉を、指導が伝わっていないと受け取るのは簡単です。

でもそこには、専門的知識と、その人の生活とのあいだのずれが表れているのかもしれません。そのずれを埋めるのは、正しい知識をもう一度伝えることではなく、その人がすでに持っている知識に耳を傾けることから始まるのだと思います。

※ 専門的知識と体験的知識の概念は、浮ヶ谷(2004)およびBorkman(1976)にもとづいています。それを医療者の語り/生活者の語りとして捉える解釈と、折り合いのつけ方についての考察は、私自身の見解です。

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参考文献:
浮ヶ谷幸代(2004).『病気だけど病気ではない』. 誠信書房.(p.158-180)
Borkman, T.(1976). Experiential knowledge: A new concept for the analysis of self-help groups. Social Service Review, 50(3), 445-456.

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