カンファレンスで意見がまとまらないのはなぜか——職業文化が構築する、それぞれの「患者」

カンファレンスで意見がまとまらないのはなぜか——職業文化が構築する、それぞれの「患者」 文化・医療人類学

学問や職業が専門性として成立するには、その対象が適切に構築されている必要があります。

物理学や化学は、物質を対象として構築してきました。医学と看護学は、どちらも人間を対象とします。でも、医学が見る人間と、看護学が見る人間は、決して同じではありません。


医学が構築する患者像——「疾患の場」

飯田・錦織編『医師・医学生のための人類学・社会学』(2021)では、医学における患者の捉え方について、次のように述べられています。

医学において患者は「疾患の場」として、診断や治療に関係のない要素をすべて除外された「医学的な課題として定式化」される、というのです(飯田・錦織編, 2021, p.234-236)。そしてこの定式化は、「患者の生活世界への無関心」にもつながっていく、と指摘されています。

つまり医学は、患者という存在から診断・治療に必要な部分だけを切り出し、そこに焦点を絞ることで専門性を成立させている、ということです。

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看護学が構築する患者像——ニーズのパッチワーク

一方、同書では看護師の実践について、「患者のニーズの同定とそれに応える援助の提供」にあると述べられています(飯田・錦織編, 2021, p.234-236)。

この視点に立つと、ケアの対象としての患者の全体像は、ニーズという点の集合——様々なニーズを集めたパッチワークとして構成される、とされています。医学が患者を「疾患」という一つの軸で切り出すのに対して、看護学は複数のニーズを寄せ集めることで、患者像を組み立てていくということです。


セラピストは、どちらでもない

ここからは、私自身がリハビリテーションの現場で感じてきたことです。

理学療法士として働くなかで、医学の患者像と看護学の患者像、その両方の色合いを感じる場面が多々あります。一方で、セラピストが一概に「医学寄り」「看護学寄り」のどちらかだとは、言えないように思うのです。

リハビリテーションにはEBM(エビデンスに基づく医療)を重視する一面があります。でも、EBMの適用は、他の職種に比べて非常に難しい側面を持っています。なぜなら、リハビリテーションの効果には、患者さん自身の能動性が欠かせないからです。決まった治療を提供すれば結果が出る、という単純な構造にはなりません。

そう考えると、セラピストの患者理解には、看護学のようなニーズのパッチワーク的な視点も必要になってきます。医学のように「疾患」という一つの軸だけでは、リハビリテーションの対象を的確には捉えきれないのです。


無意識のうちに形作られる、職業文化

もちろん、医師だから、看護師だからといって、必ずこの通りだというわけではありません。個人差は当然あります。

でも、教育課程における色合いの違いは、少なからず存在します。そしてその色合いは、無意識のうちに医療者を形作っていくのだと思います。そして、無意識がゆえに、強く形作られます。これは個人の資質の問題というより、職業文化の問題なのだと感じています。


おわりに

多職種カンファレンスで、意見がなかなかまとまらないことがあります。

そんなとき、それは単なる対立や相性の問題ではなく、それぞれの職種が異なる教育課程を通して、異なる「患者」を構築してきた結果なのかもしれません。医師が見ている患者と、看護師が見ている患者と、セラピストが見ている患者は、同じ人でありながら、少しずつ違う姿をしているのです。

そのことを頭の片隅に置いておくだけで、意見の食い違いを「相手が間違っている」ではなく、「見ている対象が違うのかもしれない」と捉え直せるのではないかと感じています。

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※ 本記事は、飯田淳子・錦織宏編『医師・医学生のための人類学・社会学』(2021年、ナカニシヤ出版、p.234-236)の記述を主な手がかりとして書いています。医学・看護学の対象構築に関する記述は同書からの引用・要約であり、セラピストの立ち位置についての考察部分は、私自身の臨床経験にもとづく見解です。


参考文献:
飯田淳子・錦織宏(編)(2021).『医師・医学生のための人類学・社会学』. ナカニシヤ出版.(p.234-236)

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