「病気だけど病気ではない」——エンパワメントが人を追いつめるとき

「病気だけど病気ではない」——エンパワメントが人を追いつめるとき 読書メモ

「自分のことなのに、やる気が感じられません」。カンファレンスや申し送りの場で、こうした言葉が出ることがあります。「家族はあんなに協力的なのに、当の本人はやる気があるようには見えない」と。

口に出すかどうかは別として、私自身、そう思ってしまったことが何度もあります。リハビリテーションの現場では「主体性」「自立」という言葉を日常的に使います。患者さんが自分から動き出すこと、誰かの手を借りずにできるようになること。それを目指すのは当然のことだと思ってきましたし、そこに向かわない人を見ると、どうしても引っかかりを感じてしまうのです。

医療人類学者の浮ヶ谷幸代さんの『病気だけど病気ではない』という本の終章を読んで、あのときの自分の見方が、ある枠組みの上に乗っていたのだと気づかされました。

私たちは、二分割された世界に生きている

浮ヶ谷さんはまず、「病気である」と「病気ではない」という分け方そのものが、生物医学や予防医学の社会的な言説によって構築されたものだと指摘します。

そして、文化人類学の議論(メアリ・ダグラスやエドモンド・リーチらの研究)を踏まえて、こう述べます。人間は世界を認識するための判断軸として、カテゴリーによる二分割を行う。けれどもその線引きは、文化によって規定された恣意的なものであり、絶対的で普遍的なものではない、と。

正常と異常。自己と他者。生と死。男と女。そして、病気であることと、病気ではないこと。私たちは、こうした二分割を当たり前のものとして共有しながら生きています。

どちらでもない領域には、名前がつく

興味深いのはここからです。社会は二元論の価値秩序を共有すると同時に、どちらにも当てはまらない中間的なカテゴリーを創り出してきたと浮ヶ谷さんは書いています。

そして、その中間的な領域の扱われ方は、ひとつではありません。文化によって肯定的な意味づけがなされているときには、社会的な役割と価値が与えられます。反対に、危険な領域として位置づけられるときには、その危険を回避するためのさまざまな文化装置が用意される、というのです。

例として挙げられているのが、子どもから大人への移行期です。子どもでもない、大人でもない、どっちつかずの存在。この境界的な状態は危険なものとみなされ、社会はその危険を回避するために、さまざまな手続きを必要とする成人儀礼を用意してきた、と。

どっちつかずであることは、放っておかれるのではなく、社会の側が処理しようとする対象なのだ、ということです。

「肯定しよう」が、人を追いつめるとき

二分割された社会では、知らず知らずのうちに「病気でないこと」が優位に置かれ、「病気であること」が劣位に置かれてしまいます。

だとすれば、問題解決の道は、当然「病気であること」を肯定する方向に向かうことになります。病気とともに生きることを、前向きなものとして捉え直す。実際、医療の世界はその方向に進んできました。

けれども浮ヶ谷さんは、ここに新しい問題が生じると論じます。

その肯定の道筋には、主体性・自立性・エンパワメントといった概念が前提として置かれている。すると、病気の経験に必然的に伴う苦悩やパトス(受苦)の経験が、排除されるべきものとして捉えられてしまう。そして、その問題解決のための戦略に添えない人たちに、さらなる苦悩をもたらすことになる、と。

読んでいて、うまく言えない感覚を言い当てられた気がしました。

「自分のことなのに、どうして頑張らないんだろう」。あの言葉は、患者さんの性格や意欲について述べたものではなかったのかもしれません。肯定への道筋に乗れなかったことを、私は本人の問題として見ていた。でもその乗れなさは、そもそも「肯定しなければならない」という枠組みの側から生まれていた可能性があります。

「家族は協力的なのに」という言い方も、同じところから出てきているのだと思います。周りが条件を整えたのだから、あとは本人が前を向くだけだ——そう考えてしまう。けれど、その「あとは本人が」の部分に、どれだけの重さが乗っているかを、私は考えていませんでした。

苦しみを苦しみのまま抱えている人は、この枠組みの中では、いつまでも途中にいる人になってしまいます。

「病気だけど病気ではない」という場所

だからこそ、この本のタイトルなのだと思います。

「病気だけど病気ではない」という言い方は、論理的には矛盾しています。でも浮ヶ谷さんは、この言説が「病気である」と「病気ではない」とのあいだで両義的に生きるという新しい領域を再配備する可能性を示していると述べます。

どちらかに決着をつけるのでもなく、どっちつかずを危険として処理するのでもない。あいだに居続けることが、そのままひとつの生き方として認められる場所。

臨床でできることは、意外に小さいのかもしれません。肯定させようとしないこと。決着を急がないこと。苦しみが語られたときに、それを解決すべき課題に変換せずに聞くこと。それくらいだろうと思います。でもそれは、何もしないこととは違うはずです。

もやもやを抱えたまま、その場に居続ける。このブログで書いてきたことの核心に、まっすぐ迫ってくる一冊でした。

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参考文献:浮ヶ谷幸代(2004).『病気だけど病気ではない——糖尿病とともに生きる生活世界』. 誠信書房.(終章「病気だけど病気ではない」pp.181-188)

※ 本記事の内容は、臨床経験にもとづく私個人の考えを含みます。

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